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■ナポレオンやフリードリヒの滑腔銃時代の戦争2■

1 :名無し三等兵:2005/07/07(木) 08:01:54 ID:???
火縄式、火打石式問わず。
17〜19世紀の戦争のスレ。

前スレ
■ナポレオンやフリードリヒの滑腔銃時代の戦争■
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1058639258/

2 :名無し三等兵:2005/07/07(木) 08:03:08 ID:???
とりあえず有名どころのサイト。

ttp://kodaman-empire.kir.jp/Napoleon/nh.html

3 :名無し三等兵:2005/07/07(木) 20:24:26 ID:???
>>1


4 :名無し三等兵:2005/07/09(土) 00:24:37 ID:???
保守

5 :名無し三等兵:2005/07/09(土) 07:07:20 ID:I/4m0ktW
現代アメリカの戦術家と16〜19世紀までのヨーロッパの戦術家
どっちが優越かな

6 :名無し三等兵:2005/07/09(土) 07:10:34 ID:???
どっちが優越ということもないだろうが、ナポレオンやフリードリヒ大王のような天才の存在を、
現代の軍事組織が特に必要としていないことだけは確か。

7 :名無し三等兵:2005/07/09(土) 07:26:03 ID:???
先のアメリカによるアメリカのためのイラク侵攻の成功は
現代技術がつくりだした兵器によるものだった

現代アメリカに対抗できる術は軍隊を用いた攻撃ではなく
テロリズムによる世論の変化のみである

8 :名無し三等兵:2005/07/09(土) 09:19:47 ID:???
その兵器体系を考えるのが、今時の軍師の仕事

9 :名無し三等兵:2005/07/09(土) 10:33:26 ID:???
そもそも、20世紀半ば過ぎまで、
実験・観察→仮説→仮説に基づく実験・観察

という、科学的思考は一般化していなかったわけで。
今の我々にとっては、常識である「べき」事の範疇だけど。

議論・脳内世界の誤謬・暴走を現実世界によって検証する、
という考え方が、市民権を得ていなかった時代。
(今でも得ていないか?)

また、システム という概念も20世紀以前は乏しい。

したがって、先人の工夫と努力、そして実行力等の上に成立している

戦いの様態の検証・分析→新たな戦術・部隊編成・兵器システム等の追及
→新たなart of warの検証・分析

というフィードバック構造が、組織的にない。

>現代アメリカの戦術家と16〜19世紀までのヨーロッパの戦術家
>どっちが優越かな

 そろばんや計算尺を使って計算するのがうまい人や、
初等幾何で証明するのがうまい人と、
コンピュータシステムを構築するのがうまい人を比較するようなものではないか?

10 :名無し三等兵:2005/07/09(土) 12:29:44 ID:???
>>1VG社CivilWarのPC化マダか?

PC化されるまで死ねんじゃないか?

11 :名無し三等兵:2005/07/10(日) 14:21:01 ID:???
今のアメリカの軍事戦略を決めてる中の人は、力に頼り過ぎていて駄目ぽチックな気が。

12 :名無し三等兵:2005/07/10(日) 15:48:57 ID:???
>>11
戦略に話を転換するのか?

13 :名無し三等兵:2005/07/18(月) 20:43:15 ID:???
そういや、チャンドラーの「ナポレオン戦争」戦況図付き全巻セット
って、完全に流れたっぽいな
待ってるうちにバラも買えなくなった人ご愁傷様

14 :名無し三等兵:2005/07/19(火) 01:26:05 ID:???
>>13
マジ?
むー、ネット古書店とかを探すしかないのか?

15 :名無し三等兵:2005/07/19(火) 02:51:32 ID:???
あんな高いもんずっと売れ残ってるだろう、と思ったんだが…
バラに関しては、
Amazon、セブンアンドワイは品切れ全滅
bk1、クロネコブックサービス、丸善も品切れの巻の方が多い
紀伊国屋、ジュンク堂Webも楽天ブックスもダメ

Amazonのマーケットプレイスで定価売りしてるのが一店、これは全巻揃ってるみたいだ
あと軍事選書堂にも全巻一冊ずつあるみたい

俺は発売当時バラで買って、2003年の暮れに全巻セットの話が出たときに、信山社の担当とメールで色々やり取りした
数ヶ月経って、今どんなカンジか問い合わせたら(2004年の6月ごろかな)、

「様々な圧力があり、現在保留状態になっております。
大変申し訳ありませんが、可能となった時点でご連絡いたします。
(直販のみになる可能性が濃厚ですが、依然として不透明です)」

との返事
それから一年以上経ってるな
だれか連絡あった人いる?

そのメールでわかったことだが、全巻各300部しか刷ってなく、
バラで売ったのはそのうち150部
全巻セットは新たに刷るのではなく、残りの150部を新たに作った箱と戦況図とセットで
売るつもりだったらしい

現在品薄のようだが、信山社はまだその150部を抱えているのか、
全巻セットはあきらめて残りも店頭に放出し、その上で品薄なのか、
さすがに聞いてみないとわからないな

まあ、原書はAmazonで7、8000円で買え…在庫切れだな
作者亡くなって買う人が増えたのか?
それでも海外AmazonやAbeでは買えるから平気か

16 :名無し三等兵:2005/07/24(日) 18:26:11 ID:???
ていうか信山社のホームページでまったく紹介されてないってどうよ>ナポレオン戦争
HPにある紋章と本の紋章おなじだから、確実にここだろ
ttp://www.shinzansha.co.jp/

17 :名無し三等兵:2005/07/27(水) 00:04:31 ID:???
保守

18 :名無し三等兵:2005/07/27(水) 00:07:38 ID:???
>>15
圧力ってどこの?

19 :15:2005/07/27(水) 12:17:27 ID:???
>18
括弧の中は原文ママ
これの前後は挨拶の文くらい

具体的な説明はなかったし、頼むから聞いてくれるな、って感じだった

20 :名無し三等兵:2005/08/05(金) 03:43:34 ID:???
ほしゅ

21 :名無し三等兵:2005/08/07(日) 01:37:27 ID:???
GJの南北戦争プレイしろよ!おもろいぞ!

22 :名無し三等兵:2005/08/12(金) 09:48:06 ID:???
クネルスドルフ sage

23 :名無し三等兵:2005/08/23(火) 03:47:43 ID:aT3yGWVT
age

24 :名無し三等兵:2005/08/26(金) 15:50:16 ID:???
>15
ライプツィヒ戦場哀話も信山社じゃなかったか
こういった本を出すいい意味で馬鹿な出版社、潰れて欲しくないね

25 :名無し三等兵:2005/08/28(日) 06:43:01 ID:???
出版不況だから…。
大手も売れ筋の雑誌やコミックの売上げで、書籍の赤字を補填している状態。

26 :名無し三等兵:2005/08/28(日) 20:31:30 ID:???
昨日の( ━@Д@)新聞の一面の新書紹介欄に

原書房からネルソン提督の本が、1万ぐらいで出てたよ

27 :名無し三等兵:2005/09/03(土) 18:37:52 ID:???
TV版ホーンブロワー製作終了だって

28 :名無し三等兵:2005/09/03(土) 18:41:46 ID:???
>>19
版元から許諾を得てなかった。
出版した既成事実でなんとかなんだろって見切り出版。

29 :名無し三等兵:2005/09/04(日) 01:13:03 ID:???
ワロス 海賊版だったのかよ

30 :名無し三等兵:2005/09/04(日) 01:28:18 ID:???
ネタなのかマジなのかわからんな

31 :名無し三等兵:2005/09/06(火) 05:54:37 ID:???
>>27
製作終了ったって、ずーっと放置だったじゃん。

32 :名無し三等兵:2005/09/06(火) 19:52:26 ID:???
続きの分が製作終了ってことだろ?

33 :名無し三等兵:2005/09/06(火) 23:46:09 ID:???
ニューオーリンズがカトリーヌによって、あっけなく

 陥落www

34 :名無し三等兵:2005/09/07(水) 17:49:48 ID:???
>32
毎年製作していたけど今年以降作らないってことでしょうな。
ストーリーもこれから盛り上がるところだったのに。


35 :名無し三等兵:2005/09/08(木) 00:55:12 ID:???
過ぎてしまったが昨日はボロディノの日。

36 :名無し三等兵:2005/09/10(土) 01:30:09 ID:???
ダヴー萌え

37 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/10(土) 23:01:43 ID:???
>28
チャンドラーの日本語版にむけてのまえがきまでついてて許諾がない?
いい加減なことぬかすな

38 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 00:49:40 ID:???
英語版の版元とのトラブルじゃないの?

39 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 01:56:24 ID:???
サインがない、これは正規の文章ではない!

40 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 10:25:53 ID:???
311 名前:雲の向こうのアウステルリッツの太陽[sage] 投稿日:2005/09/11(日) 09:51:14 ID:+RIeQztM0
君が有権者として、投票所に行くのにどれだけかかる?

41 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 15:26:20 ID:???
30分…20分で充分であります!

42 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 15:35:09 ID:???
よし、15分まとう。

43 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 19:52:25 ID:???
>>37
わかってねえな、常識で計れないのが出版業界のスゴイところだ。


44 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 20:13:09 ID:???
>>43
程度の低い煽りはいいからソースよろ

45 :名無し三等兵:2005/09/12(月) 17:06:58 ID:???
何を揉めておるのじゃ、おはんら。
奈翁の栄光は、この西郷が引き受ける。
ゆえに今日のところは、引いてくれぬかのう

46 :名無し三等兵:2005/09/12(月) 20:44:43 ID:???
のう大久保どん日本の夜明けは近いのう。

47 :名無し三等兵:2005/09/12(月) 20:54:47 ID:???
のう?坂本どんは・・・

48 :名無し三等兵:2005/09/24(土) 06:55:33 ID:???
ナポレオン戦争時のプロイセンで結成された
学生義勇軍の軍服の写真、イラストを探しています。
ググったところ黒いマントに赤い肩章、金のボタンを
着けていたということはわかったのですが、イメージがつかめません。

49 :名無し三等兵:2005/09/24(土) 07:27:34 ID:???
 

50 :名無し三等兵:2005/09/27(火) 15:45:00 ID:???


51 :名無し三等兵:2005/09/27(火) 18:39:08 ID:wueB9fpX
オンライン書店ビーケーワン:ワーテルロー戦役
ttp://www.bk1.co.jp/product/02445749/?partnerid=

誰かこの本買った人いますか?
いたらどんな内容でした?

学研M文庫の南北戦争のように、戦闘地図ありまくりですか?

52 :名無し三等兵:2005/09/27(火) 20:14:00 ID:???0
>>15
ウホ 出た直後から1ヶ月位の間に
素早くネットで中古書籍を1冊あたり6000円くらいの値段で
ちまちま買って全巻揃えたオレは完全な勝ち組か もしかして




53 :51:2005/09/28(水) 19:55:49 ID:2acn3btR
。゜(゚´Д`゚)゜。ウァァァン
オレのレス完全に無視かよ
ヽ(`Д´)ノモウコネエヨ!!

54 :名無し三等兵:2005/09/28(水) 20:14:33 ID:???
>>53
レスされないだけで切れる奴は、自分のサイトでもつくっとけ

55 :トルエン大尉 ◆HLQcUQEQBs :2005/09/28(水) 20:24:54 ID:???
>>53

注文しちゃいましたよ(w

56 :51:2005/09/28(水) 22:52:28 ID:???
>>55
ほー、買ったら感想きぼんぬ
アルバート・A.ノフィはゲームデザイナーでもあるらしい
なかなか興味をさそるな

57 :トルエン大尉 ◆HLQcUQEQBs :2005/09/28(水) 23:01:50 ID:???
>>56

うぃ。しかし取り寄せ対象になってしまった。いつ届くやら・・・

58 :名無し三等兵:2005/09/29(木) 02:37:04 ID:???
ナポ戦争買えなかったオレは負け組…orz

金が、金が…ッ

>>51
詳しい論評はトルエン殿に任せるとして(w
その時代(戦争)に興味があるなら買っておいても損はない。
コラムとして当時の各国歩兵の装弾スピードから食事、小火器類、軍馬、
戦術の基礎知識、時間について、また各指揮官それぞれについて等など…
細かいネタも充実してるほうでは無かろうか。
むしろ、オレは本編よりコラムが気に入ってしまった(w

59 :名無し三等兵:2005/09/29(木) 20:45:28 ID:???
>52
そうそう、発売したらしばらくネット古書店張ってると5000円とかで売ってたよな
ヤフオクにも同じくらいの値でな
俺もそうやって集めた

60 :名無し三等兵:2005/09/29(木) 21:27:32 ID:???
だってチャンドラー翻訳高いからなぁ。ま、買い損ねた負け組みのオレは
ノルフィ氏の本をかうべか

61 :48:2005/10/01(土) 18:06:56 ID:???
>>51
私も図書館においてあったので読みましたが
なかなか面白かったです。

学生義勇軍ですがその後調べたら、Cossacks2というゲームに
黒い軍団という名前でそれらしいユニットが出てるそうですが
その画像を見たところ赤い肩章をしていなくて微妙に説明と違いました。
はたして黒い軍団とは学生義勇軍のことなんでしょうか?

62 :名無し三等兵:2005/10/02(日) 22:56:56 ID:s5gopopl
>>51
ノフィの本についてはAmazon.comにレビューあり(英語)
waterloo nofiで検索すれば見つかる

>>61
黒い軍団"Schwarze Schar"はおそらく↓コレ
ttp://www.capricornbooks.ca/si/14095.html
彼らの鬨の声は"Sieg oder Tod"「勝利か死か」だった↓
ttp://www.histofig.com/history/empire/uniformes/brunswick_en.html


63 :62:2005/10/02(日) 23:35:39 ID:???
修正
Braunschweig兵ではなくLutzow Freikorps↓との説もあった
ttp://www.cdgenealogy.net/preussen1813-15c.jpg
だとしたら学生がいたかも


64 :48:2005/10/03(月) 04:59:56 ID:???
>>62-63
ありがとうございます

ゲームを入手したのでプレイしたところユニットの説明がありました。
どうやらゲームに出てくる黒い軍団はBraunschweig公の兵隊のようで
ゲームの画像は>>62の青い襟の軍服に近かったです。

学生義勇軍ですが記述から推測すると>>63のLutzow Freikorpsのようです。

65 :名無し三等兵:2005/10/03(月) 07:08:57 ID:???
Braunschweig、、、


どこかで聞いた名だとおもい、
そうかと気づく。
自分がかなしい、、、

66 :名無し三等兵:2005/10/04(火) 05:51:49 ID:???
銀・・・いやなんでもない

67 :名無し三等兵:2005/10/05(水) 19:03:03 ID:???
「おれはアニメやラノベは読まない。生粋の軍ヲタだぜ」
汚染は自覚症状なく進行中だ

68 :名無し三等兵:2005/10/09(日) 14:32:06 ID:???
コサックのベルリン侵入age


69 :名無し三等兵:2005/10/17(月) 01:48:14 ID:l6tLBeWa
age

70 :名無し三等兵:2005/10/19(水) 01:52:59 ID:Rro573sv
物入れから、FOXシリーズ1〜7が出て来たよ

71 :名無し三等兵:2005/10/20(木) 02:07:05 ID:???
>70
アダム・ハーディーの?

72 :70:2005/10/22(土) 00:39:12 ID:z46EU1uE
>>71
そうです、でも今確認したら5巻がなくて
代わりに8・9巻がせてきた。
気になってしょうがないよ5巻(;´Д`)

73 :71:2005/10/22(土) 15:07:48 ID:???
>72
漏れは1〜6までしか買ってなくてな7以降が読みたい!ってんで、国立国会図書館で7以降
読みますたよ。正直原書も入手困難だもんなぁ。きつい。

がんがれ!

74 :名無し三等兵:2005/10/22(土) 19:38:15 ID:???
>>70
>>71
こっちもよろしく

【ハヤカワ】海洋歴史ロマン総合スレPart 2【至誠堂】
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1112500961/

75 :71:2005/10/22(土) 22:37:43 ID:???
>74
すまん、そっちの前スレで至誠堂を推した一人だったりする(死
これを期に潮気のある人は是非と、漏れもここで訴えてみたりする。

76 :トルエン大尉 ◆HLQcUQEQBs :2005/10/23(日) 16:55:20 ID:???
>>56
ついに届きましたよ。「ワーテルロー戦役」
で、地図ですが「南北戦争」のようにはありまくりではありませんが、
リニー、キャトルブラ、ワーテルローの要図は当然ありました。

そしてOOBで歩兵は大隊、砲兵は中隊の人数まで書いてあり、
ここまで記してあるのは日本語の本ではないかもしれません。

それと上スレで誰が書いていましたが、コラムが面白いです。
特に砲兵の戦術や運用にも触れていて気に入ってしまいました。

ワーテルローに興味がある人は持っていて損はないと思いますよ。


77 :名無し三等兵:2005/10/24(月) 22:10:18 ID:???
ナポレオン戦争、ブックオフの特売で買ってきたよ。


78 :名無し三等兵:2005/10/24(月) 23:00:01 ID:???
>>77
そりゃ羨ましい

79 :名無し三等兵:2005/10/25(火) 11:30:30 ID:???
あんなものブックオフに売る持ち主もすごいな
亡くなって家族が売ったのかね

80 :名無し三等兵:2005/10/28(金) 22:05:15 ID:???
ナポレオン戦争、まだ1セット原宿のブクオフにあったよ。


81 :名無し三等兵:2005/10/31(月) 23:17:07 ID:lKBz58i8
斜行戦術age

82 :名無し三等兵:2005/11/01(火) 22:44:29 ID:???
>>80
もう売ってなかったorz

83 :名無し三等兵:2005/11/03(木) 08:37:39 ID:???
トルガウsage

84 :名無し三等兵:2005/11/17(木) 17:41:48 ID:+f+NYRBY
あげ

85 :名無し三等兵:2005/11/21(月) 20:28:33 ID:???
ちょっとお借りしますよ

86 :revolutionにて候:2005/11/21(月) 20:29:05 ID:???
中世から近世への移行期にヨーロッパで「軍事革命」があったという考えは現代では定説となっている
仮に「革命」が起こったとして、それがいつ起こったかの正確な時期については意見が一致していない
最も一般的な見解では、1496年にイタリアに押し出したシャルル8世の軍勢が
3世紀後にナポレオンが率いた軍隊と構成が根本的に異なっていないという理由で
軍事革命の最初のケースであると見なされている
確かに歩兵の戦術的地位の向上、広範にわたる火器の採用、新型の火器に抗堪できる築城技術の急速な発展等、
軍事革命の多くの要素が15世紀末には出揃っている
しかしながら、16世紀中頃から17世紀中頃にかけて、軍事革命にとって最も重要なファクターである
プロフェッショナルな常備軍が出現したとする主張も根強い
この時期、東欧周辺地域を除く中部及び西部ヨーロッパでは、アジャンクールでイングランド軍が見せたような
飛び道具と迅速な機動の必殺の連携が銃兵と重槍兵の密集戦闘隊形によって確立した
騎兵は十二列以上の縦深に配列された重槍兵の槍列を前に正面突撃を放棄せざるを得なくなっていた
同時に、戦力集中原則に則って緊密な隊列の維持を要求された歩兵は更に鈍重になり、
歩兵が攻撃的な運動を行うこともますます困難になっていた
こうした防御偏重の戦術的な停滞は兵站と戦略的な諸要因によってさらに強められた
長期にわたって野戦軍を養える地域は少なく、更に輸送手段や交通網も貧弱であったため、
部隊は補給を要塞に置かれた倉庫に頼らざるを得なかった
この重要な補給点である要塞は多面的な稜堡を備えたイタリア式築城で構築され、
攻城砲の放列ですら迅速な攻略は難しくなっていた
攻城戦は古代からのオーソドックスな攻囲のセオリーに則って行われ、
長期にわたる攻囲が重い攻城砲と多くの弾薬や貯蔵庫を必要とした
会戦の全てが攻城戦を巡って行われるようになり、攻城戦が野戦より重要になっていた


そんだけ


87 :モード:2005/11/21(月) 20:29:49 ID:???
この時期の軍隊の大部分は傭兵だった
16世紀以前にもある程度の常備軍は存在しており、多くの国ではまだなお封建的な騎士の従軍義務と
民兵的兵役義務という中世封建軍制の名残が存在していたが、これらはほとんど何の役にも立たなかった
傭兵は十分戦闘には耐えたが、あくまで金銭と引き換えに軍事技術を提供する者であり、
少なくとも契約の上では雇用者である国王や諸侯と対等の立場にあった
この時期のヨーロッパの傭兵制はいわば封建軍制から絶対主義軍制への過渡期に
必然的に発生した暫定的な存在であり、国家の信頼できる暴力装置として軍務を遂行する効果的な軍隊を
いかに整備するかという問題は既に15世紀末から認められていた
イタリアでは、古典文明への関心の復興が軍事理論とその実践に大きな影響を与えた
古代ローマの軍制に関する研究は、特に改革者、正確には改革者を自認する者にとって発想の源泉となった
マキャヴェリの「戦術論」は、古代ギリシャ・ローマの軍制の価値を再発見し、
その復活を推奨した数多くの論述の中の、最も有名なものでしかなかった


そんだけ


88 :嗚呼仮想戦記:2005/11/21(月) 20:30:16 ID:???
この「新古典派」の中には実際に戦場を経験した軍人も含まれていたが、
彼らの示唆は素人による机上の空論の域を出なかった
そして、古典に影響された改革の多くが短命で、または原形をとどめぬほどに変容したが、
マキャヴェリやその他の多くの人文主義者たちの中心的な考え、すなわち社会が軍事的義務を
担うべきとする観念は一面では間違ってはいなかった
フィレンツェでは多くの人文主義者が国民軍のほうが傭兵よりも優れかつ信頼できると主張していた
しかし、支配者は臣民を武装することに躊躇していた
最も重要なことは、古代ローマの執政官と軍団長たちが直面したものよりはるかに巨大で複雑で専門的な
当時の軍事技術を体得できるのは傭兵のみだと信じていたことだった
そして、この点に関しては支配者のほうが正しかった
実際、西欧においては必要な時にだけ任務を遂行するパートタイマー的民兵軍には多くの問題があった
民兵は召集には時間がかかり、野戦では不手際で、主に自分の町の防衛のみ有用だったが、
複雑で長期にわたる作戦には不適当だった
例えそうであっても、階級組織の指揮系統、機能的な任務付与、不断の訓練と教練により達成される軍事能力等、
マキャヴェリが強調したことは、八十年戦争のオランダにおいて、戦闘効率が高く高度に統制された軍隊が
出現したことで実現した
もっとも、それは兵の士気や忠誠心の問題に端を発したものではなく、
指揮下の兵士と兵器をどう使えば敵を打倒できるかという純粋に技術的な要求への回答からだった


そんだけ


89 :小さなリボン:2005/11/21(月) 20:30:47 ID:???
オランダの寡頭政治の支配者は、自国の司令官、すなわちナッサウ・オランイェ家の諸侯に
新型軍隊の指揮を委ねる覚悟があった
この時期のフランスやスペイン、ドイツの教養ある軍人と同じく、オランイェ家の将帥たちは
古代の軍事著作に通暁しており、銃と槍の組み合わせから最大の効果を引き出すために、
新しい戦闘隊形とより一層の訓練を結合した新しい統制が必要であることを認識していた
火力と機動を効果的に発揮するため、歩兵は大規模な密集方陣を解き、比較的小型の隊列の集合体として
展開するようになった
将校はより高度な主導性と熟練した指揮法、作戦計画への服従が要求された
この新しい軍隊は、後の絶対主義軍隊の原型となったが、残念ながら古代ローマのレギオンとは
幾つかの部分で本質的に異なっていた
ナッサウ家の改革者たちは、軍事専門技術と社会的、精神的な価値観を兼ね合わせた新しいタイプの
プロフェッショナルな兵士と戦闘指揮官を作り上げた
火力と機動の発揮を連携させ組織的戦闘力を最大限に発揮させるという戦術的要求は高度な部隊教練を要求し、
それを実現させるために規律が重要な要素となった
オランイェ家の改革者たちは最初から国民兵構想など当てにしてはおらず、長期雇用の専門的な傭兵に
頼っていたが、規律を重視し、専門的な将校と、教練を通じた規律の強化と維持に努力を払い続けた
これは、近世初期における絶対主義軍隊の成立に社会的・道徳的側面から基本的パラメーターを提供した
マウリッツと彼の従兄弟たちによって実行された施策は後のヨーロッパの軍隊の基準となった
ヨーロッパで支配的になった絶対主義軍隊は、いまだ幾つかの重大な欠陥を内包していたが、
それ以前の傭兵軍に比べればかなり効率的な道具となり、明確な政治的・軍事的指揮系統の命令に
予期できる形の服従で対応していた


そんだけ


90 :血と硝煙と金貨:2005/11/21(月) 20:31:20 ID:???
これらの変容は、戦略と戦術に実質的な影響を与えた
戦略と戦術は相変わらず不十分な通信連絡網と要塞に支配された環境の制約下にあり、
戦略と戦術の輪郭は18世紀末までずっと不明瞭だったが、規律ある常備軍が指揮官の立案した計画に基づき、
長期的かつ持続的な作戦を遂行することが可能となった
18世紀末の軍隊とマウリッツの軍隊は多くの点で異なっているが、本質的な点では共通していた
グスタフ・アドルフとモンテクッコリは、よく統制された軍隊が戦争の基本的要求であることを確信していた
ヨーロッパ絶対主義体制の常備軍の発展は、二つの独立した系統から出現した
オランダのモデルは広く模倣されたが、一方でトルコとの長期戦に由来する「帝国」モデルも存在した
神聖ローマ帝国において、アヴェンテュニスやフロンスペルゲア、シュヴェンディは
オスマン・トルコの軍制を賞賛し、同様の制度と組織の導入を再三にわたって主張していた
スウェーデンとトルコの両方との戦闘を経験したモンテクッコリは、二つの系統の融合を
体系的に著した最初の人物だった
こうして、オランダ、スウェーデン、オーストリアの遺産が近代に至るヨーロッパ列強の軍制に継承された
後に、シャルンホルストはモンテクッコリを戦争の普遍的性格に導く欠くことのできない先達と称している
「軍事革命」の定義を、新しい兵器や戦闘隊形の採用以上の、軍隊や戦争の性格の基本的な転換を
含むものであるとするならば、そのような転換は1560年代以降、マウリッツ、グスタフ・アドルフ、
モンテクッコリに代表される多くの指揮官たちの努力と実験の末に大部分が達成されたと言える


そんだけ


91 :チーム:2005/11/21(月) 20:31:45 ID:???
ウィレム沈黙公の二番目の息子、ナッサウ家のマウリッツは著名な行政官、戦術家で攻城戦の権威であるが、
偉大な戦略家であったとまで言い切ってしまうのは賞賛というより信仰に近い
彼は非常に慎重で、自らの作り上げた軍隊を危険な状態に置くことを避け続け、
本格的な作戦を行ったのは20年間で一度だけだった
彼は連邦共和国の独立を守るという戦略目的を達成したが、慎重な余り、戦闘的ではあるが
それほど組織的ではない敵に対してしばしば不利な状況に陥った
1589年から1609年にかけてのマウリッツの兵制改革の実行は、
軍人、政治家、各分野の学者の参加による共同研究の成果だった
軍隊の全般的な編制を作り、その財源を確保するために、マウリッツは、ホラント州の法律顧問であり、
連邦共和国を形成する七州の集合体の連邦共和国議会で三十年間にわたって
最高政治家を務めるヨハン・ファン・オルデンバルネフェルトの支援を受けた
兵站と戦術的問題は二人の従兄弟ウィレム・ローデウェイク、ヨハン・ファン・ナッサウ・ジーゲンに、
攻城戦と軍事技術については数学と攻城技術の個人教師であったシモン・ステヴィンの助言を受けた
シモン・ステヴィンは軍の工兵監となり、多くの攻城戦を指導し、工兵団の創設に貢献している


そんだけ


92 :赤絨毯を征く:2005/11/21(月) 20:32:10 ID:???
マウリッツの用心深さと慎重さもまた、連邦共和国の複雑な政治的、軍事的状態を反映し、
彼の置かれた独特の立場から生まれた
グスタフ・アドルフやフリードリヒ2世、ナポレオンのような君主将軍と違って、
彼は常に強固なシビリアン・コントロールの下に置かれていた
1588年、彼は21歳で「連邦共和国陸・海軍司令長官」と「ブラバント、フランドル陸軍大将」、
すなわち両州の野戦軍の最高指揮官に任命され、加えて既にこの時にはホラント、ゼーラント両州で
元首の代理である総督の公職にあった
1591年以降、更にヘルデルラント、オーフェルエイセル及びユトレヒトの総督に任ぜられた
同時に彼の従弟のウィレム・ローデウェイクはフリースラントの、1594年以降はグローニンヘンや
ドレンテの総督であった
しかし、多くの公職は権力を意味してはいなかった
海軍の指揮官として、マウリッツは異なる五つの州の海軍本部委員会に対して責任を有していた
そして、共和国によって「陸軍大将」に任ぜられていたが、連邦共和国陸軍の全てを指揮できたわけでは
なかった
州の独立性は軍隊の発展と時に作戦を抑制し、連邦議会の特別委員会である国務会議は
常に特別戦場委員を通じて作戦を監視した
マウリッツの立場は、最高司令官というよりもむしろ軍事技術のエキスパート、作戦のマネージャー、
連邦共和国の軍事顧問に近かった


そんだけ


93 :鶏卵の幸運:2005/11/21(月) 20:32:39 ID:???
このシステムは、かなりの軋轢の種にはなったが、長い間それなりにうまくいっていた
マウリッツは政治的野心を抑え、一方で軍事的伝統を欠く商業寡頭制の支配者は軍人の経歴を好まなかったので、
総督に軍隊管理の細目を任せて満足していた
それでも軋轢を完全に避けることはできなかった
1600年、政治家が軍にフランドルでの作戦を強行させた時、高級将校たちは、ロングコート(政治家)が
軍隊を不必要な危険に晒したと不平を述べている
そして結局、マウリッツとオルデンバルネフェルトの政治闘争の際、オルデンバルネフェルトが、
共和国軍とは別に都市の予算で創設された民兵軍を新編することにより共和国軍の役割を制限しようとした時、
マウリッツはオルデンバルネフェルトを逮捕して裁判にかけ、1619年に死刑にした
1588年にマウリッツが陸軍最高司令官に任命されたときには、まだこうしたことは起きていなかった
その頃は、政治家も軍人も、傭兵と民兵の非効率な軍隊を、スペインの老練なフランドル方面軍を
駆逐する能力を備えた軍隊に改革する必要があるという点で合意していた
当時、フランドル方面軍はパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼに率いられ、
オランダ北部を完全に奪回しようと窺っていた
この年も、オランダの反乱勃発以来と同様に闘争は均整のとれたものではなかった
低地帯での長い紛争は民族解放戦争であると同時に内戦でもあり、オランダが当時最強の軍事大国スペインと
対決しながら生き延びられていたのは、彼らが異常なほどの努力を払って死に物狂いで戦ったからではなく、
オランダの地形のためであり、またスペインが長期間にわたる大規模な作戦を行う上で
困難に直面していたからだった


そんだけ


94 :裏目の時は何をやっても駄目:2005/11/21(月) 20:33:04 ID:???
1566年の反乱初期にはスペイン・ネーデルラントは人口約300万の十七州からなっていた
この地域を流れるライン、マース河とスヘルト河川系が、平坦で農業も盛んな主要な都市である南部十州と
人口もまばらで貧しい北部を分断していた
南部は反乱の最初の焦点となったが、間に合わせの反乱軍は野戦で度重なる敗北を喫し、
貴族的な指導者層と過激化する都市部中下層民を中心とした反乱支持層の分裂の結果、
1579年には南部諸州はスペインの支配下に戻った
当時、北部七州は連合を結成しており、南部で抵抗を続ける地方を支援しようとしていたが、
1584年、反乱指導者の沈黙公が暗殺され、北部の軍事的努力は頓挫することになる
党派的地方的な対立によって分裂していた北部諸州は統一的努力を払うことができず、
一方で傭兵への報酬は滞り、都市は次々にパルマ公の手に落ちた
アントワープをはじめ幾つかの都市は長く抵抗したが、多くは戦う前に交渉により降伏した
パルマ公は河川障害を克服しつつ北へ進撃しながら東部に第二戦線を形成し、エイセル河に向けて
フリースラント、グローニンヘン及びヘルデルラントに侵攻し、ユトレヒトとホラント、ゼーラントを脅かした
スペインが勝利をつかみかけたため、それまで反乱軍に間接的な支援しか与えていなかったイギリスの
エリザベス女王も直接介入を決意し、軍隊を派遣し、軍資金を提供せざるを得なくなった
しかし、イギリスの干渉も結局は実を結ばなかった
イギリス軍指揮官レスター伯は連邦共和国と対立し、彼の部下の中には拠点をスペインに売り飛ばす者さえいた


そんだけ


95 :糾える縄:2005/11/21(月) 20:33:30 ID:???
1587年には反乱軍は危機的な状況にあった
パルマ公の東部攻勢はザイデル海に達して南部戦線と合体し、反乱軍の抵抗地域をホラント、ゼーラント、
ユトレヒト諸州とオーフェルエイセル、ヘルデルラント、フリースラントの幾つかの孤立した拠点と、
大河の南にあるオステンド、ベルヘンオプゾームに押さえ込んでいた
1587年から翌1588年にかけて、パルマ公が任務を完全に達成できなかったのは、
イギリスの干渉に怒り狂ったフェリペ2世がイギリス本土攻撃のために無敵艦隊の派遣を決定し、
パルマ公に対してイギリス遠征の乗船準備のためにダンケルクへの転進を命じたからだった
イギリス遠征の企図が失敗し、翌年パルマ公は再びオランダへの移動を準備していたが、
フランスの宗教戦争におけるカトリック軍の支援のために転進させられた
こうして強敵の転進により軍を再建する時間的余裕を得たマウリッツは、北部地域の多くを回復し、
防衛線を補強することができた


そんだけ


96 :水に落ちる:2005/11/21(月) 20:33:59 ID:???
オランダがホラント要塞と呼ぶ戦略的要塞地域を保持していたことが重要な利点となった
この地域は北部と西部を北海とザイデル海に、南部を河川に、東部をエイセル河と沼沢地に守られ、
運河、水路、入江、沼で分割され、主に小規模な要塞都市が点在する低地帯からなっていた
この要塞地域は後に1672年のフランスの侵攻からも持ちこたえ、
1940年にドイツの電撃戦で陥落するまでオランダの軍事的聖域であり続けた
オランダは1572年から1574年にかけて既に採用していた手段、
すなわち運河を決壊させることによって広範囲に氾濫作戦を実施することができた
スペインが優勢な艦隊を集中できればスペインに勝機はあったが、既にフランスと地中海への干渉、
海外植民地の安全保障の必要からそれだけの戦力投入は不可能になっていた
挙句に、スペインの経済的破綻はフランドル方面軍の度重なる反乱を引き起こしていた
一方、英仏海峡のコントロールが保障されていなかったため、軍隊の増援はイタリアからの
長い迂回路となるスペイン街道によって行わなければならなかった
対照的に海と内陸水路を支配したオランダは、部隊を水上機動させてブラバントとフランドルに
奇襲的な攻勢を仕掛けることができた
更に、まだ無敵とまではいかなくとも、海上交通路の支配権を強化したことでオランダの海上貿易が
急速に拡大し、経済に発展をもたらした
当時のアムステルダム市長は、オランダは戦争によって繁栄したと放言した
この経済力がオランイェ家の改革者たちにプロフェッショナルな常備軍を養い、大規模な攻城戦を実施し、
前線に新たな防衛線を構築する財源を提供した


そんだけ


97 :センチメンタリズムとリアリズム:2005/11/21(月) 20:34:23 ID:???
兵制改革の発想は16世紀の戦争を遂行する必要から生じたもので、マウリッツのブレインの一人で
マキャヴェリの信奉者であったユスツス・リプシウスの主張にもかかわらず、
古典的なモデルを参考としていたわけではなかった
リプシウスが忠実な国民兵を用いることを提唱していたにもかかわらず、
改革者たちは専業的な兵士を雇い続けた
オランダ人は海上で功績を上げたが、軍隊の大半は外国人の傭兵で構成されていた
低地帯での初期の攻城戦では多くのオランダ人が直接戦闘に参加していたが、
海上貿易と海軍の成長が自国の人的資源を必要とした
地方や要塞防衛の軍務は地方民兵で補充された民兵中隊が任じられていたが、
新古典主義の純理論家よりも現実主義者であった総督は、数は多くないが、
選抜され十分な給養と高給を保証された規律の高い傭兵野戦軍を募集した


そんだけ


98 :教練教練もっと教練:2005/11/21(月) 20:34:47 ID:???
新しい軍隊の際立った性格は、論理的な統率、確固たる服従、戦術展開と機動性の改善にあった
改革は人員の削減から始まり、部隊の兵力を削減された財源に合致させた
1600年まで、オランダの野戦軍は歩兵1万、騎兵2000を超えることは滅多になかった
そしてこの軍勢は比較的有力な砲兵放列(1595年の時点で42門、うち野砲6門)に支援されていた
下士官の多くはフランス人、ドイツ人、イギリス人、スコットランド人で、
少数ながらスイス人やスウェーデン人、デンマーク人もいた
年間契約と給料の即時支払によって兵は規律を受け入れるようになっていた
マウリッツは兵の行状に対して厳しい軍律で臨んだが、同時に規律を身につけさせる方法として
教練を用いることを発見した
ウィレム・ローデウェイクの提案で兵は日課を課せられ、号令はオランダ語、英語、ドイツ語に翻訳されて
毎日訓練された
勿論、それまでも陸軍は兵器の操作法に習熟するよう兵を訓練していたが、
この場合の訓練では個人と部隊の技能を達成する以上の目標が与えられていた
兵器の操作と部隊の教練を適切に実行することは規律を外部に示すことになり、
訓練は命令に即時に服従することを刷り込み、部隊の組織的戦闘力を強化するよう計画された
軍隊における教練の再導入はオランイェ家の改革の本質的な要素であった


そんだけ


99 :オフィサーズクラブ:2005/11/21(月) 20:35:12 ID:???
教練が進むにつれて戦術展開の効率も向上した
日常の武装訓練は銃と槍の連携を改善し、部隊の機動性の向上につながった
1594年にはウィレム・ローデウェイクがマウリッツに提案していた斉射戦術が採用された
部隊は次第に小型化され、マウリッツは中隊の定数を130名に削減して銃兵の比率を高めた
こうした動きは試行錯誤と実験を伴っていたため、結局マウリッツが恒久的な戦闘隊形を確立することは
なかったが、各中隊は800名、後に550名の大隊に集成され、直線的な梯隊配置により戦列を形成した
オランダの戦術ドクトリンは常に訓練を必要とし、更に下級部隊に独立的な行動を要求していたため、
多くの下級将校を必要としていた
これが、マウリッツが現代ヨーロッパの将校団の始祖と言われる理由だが、より重要なことは、
新教と新古典的教育の影響を受けていたマウリッツが、指揮官は貴族出身であることではなく、
国家が裁定した将校任命辞令によって権威づけられた公的責務を負うものであると考えていた点にあった
これは軍隊に確立された階級間の絶対服従の概念と結合された
勿論、現実はこの理念とは異なっており、オランダ軍内の上級の地位は総督の縁故で占められていた
高級将校には多くの外国人も採用されていたが、それは彼らだけが必要とされた専門技術を備えていたからで、
ようやく不動の昇進基準が導入されるのは1618年になってからだった


そんだけ


100 :率先垂範より銭:2005/11/21(月) 20:35:38 ID:???
オランダ軍の戦術は批判されることもあった
精密な部隊運動を要求する斉射戦術は、部隊の投射火力の総量を増加させたわけではなかった
新しい戦闘隊形は決定的な攻撃を行うにはあまりにも小さく精緻でありすぎたため、
一般に防御にしか適していなかった
1597年のトウルノの遭遇戦と1600年のニューポールの戦闘でオランダの戦闘隊形は
その有効性を証明したが、それでもトウルノでもニューポールでも戦闘に決定的な役割を演じたのは
相変わらず騎兵だった
一方で攻城戦へのマウリッツの貢献は疑う余地がなかった
彼は攻城放列を増強し、砲兵、工兵、段列に対して軍内で永続的役割を付与した
マウリッツは部隊による労務の実施を導入することにより、攻城作戦の効率化を図った
それまで将兵の一部には、塹壕掘開のような土木作業に従事させられることに自尊心を傷つけられたと
感じる風潮があった
このため軍は土木作業を雇用または徴用した労務者に依存しなければならなかった
無論、こうしたやり方があまりよくないことを知って、将校の中には自らショベルやツルハシを取って
兵が作業を始めるよう仕向ける者もいた
マウリッツは更に進んで、ショベルを歩兵の標準装備に加え、作業を鼓舞するために割高な臨時手当を支給した
1593年のヘールトライデンベルヒュ攻城戦では3000名の志願者が昼夜兼行で攻撃築城に従事した
毎日きちんと日当10スタィヴァの割増賃金が支払われたからだった


そんだけ


101 :神出鬼没:2005/11/21(月) 20:36:05 ID:???
戦略に関して、マウリッツは連邦共和国議会の要求と自らの性向に従って目標を限定し、
基本的には北部七州の回復を企図した
更に彼は戦略的要点の奪取によってこの目標を達成しようとし、敵の主力を撃破することを望まなかった
1589年から1609年の間にマウリッツは29基の要塞を奪取し、3回の解囲作戦に成功した
野戦を行ったのはニューポールの一回だけで、それもマウリッツにとって望まない戦闘だった
彼は大河の内線を利用し、南部と東部の前線の間で部隊を移動させた
こうして彼の比較的小規模な野戦軍は強力な機動打撃部隊として振舞うことができた
1602年のブラバントにおけるマウリッツの作戦の失敗が示すように、
彼は水路から離れた作戦が非常に困難であることを悟っていた
最終的には彼の作戦の範囲は、各州の年来の自主独立主義と、絶対に必要以上の大戦力を維持することを
不本意とする連邦共和国議会によって制限を受け続けた


そんだけ


102 :繋がれた猟狗:2005/11/21(月) 20:36:30 ID:???
スペインがイギリスとフランスを相手に軍事行動を起こしたことは、敵を撃破する好機であると
国務会議は言明した
しかし、連邦共和国議会は攻勢作戦に反対し、防勢を強化すべきだと主張した
結局、マウリッツは北部のいくつかの主要な都市を奪回する限定作戦のみを認められた
作戦は1590年にブレダに対する攻撃で開始され、共和国軍は、大河川北部のスペイン軍の根拠地を排除し、
ブラバントとフランドルの一連の小要塞群を攻略するためにワール河を渡河した
翌1591年、マウリッツは会戦季節である5月から10月にかけて大規模な攻勢作戦を実施した
彼はまず東部エイセル河沿いにおいて5月にズットフェン、6月にデーフェンテルの要塞を2週間で攻略し、
続いて平底船で部隊を移動させて9月にアントワープ近くのホルストを5日間で奪取した
その後、ドルドレヒトに反転して陸路を進軍し、10月にナイメーヘンを6日間の包囲で陥落させた
この一連の目覚しい成果を、マウリッツは奇襲と迅速な攻囲作戦、更に交渉において
敵の守備隊へ相当に譲歩した条件をつけることで達成した


そんだけ


103 :調子に乗ると失敗するフラグ:2005/11/21(月) 20:36:56 ID:???
1592年、マウリッツは北東部で作戦を展開し、ステーンウェイク、クフォルデンを奪取した
この際に州の自主独立主義が表明されている
すなわち、フリースラント州はオーフェルエイセルとヘルデルラントにおける作戦を支持したが、
ゼーラント州からの圧力でマウリッツが南東部のヘールトライデンベルヒュに転進を余儀なくされたとき、
フリースラント州はウィレム・ローデウェイクとマウリッツの軍勢がこの作戦に参加することを禁じた
1593年6月、ヘールトライデンベルヒュは長い攻城戦の後に予定よりも相当遅れて陥落した
翌1594年、マウリッツは東部に戻り、同年7月にグローニンヘンを占領した
その後、当面の目標が達成されたということで各州は軍への資金を減らしたため、
マウリッツは作戦を一時中止せざるを得なかった
この休止期間にマウリッツは軍を再編成し、1597年にスペインが再びフランスに重点を指向したので、
マウリッツはスペインの要塞をいくつか奪取し、東部戦線と南部戦線のスペイン軍の連絡を遮断した
1598年にスペインとフランスが和約を結び、増強されたスペイン軍はオランダ軍の南東翼の河川域を
渡河して突出したが、1599年初頭には撃退された
当時スペイン軍内では反乱が起きていたため、これまでの成功で大胆になった連邦共和国議会は
マウリッツを説き伏せてスペイン私掠船の根拠地であるニューポールとダンケルクに対して
フランドルの海岸沿いに軍を進めた
1600年7月、マウリッツはニューポール近郊で臨時召集された急拵えのスペイン軍を撃破したが、
これは戦術的勝利ではあっても戦略的勝利ではなかった
計画されていたニューポールとダンケルクの攻囲作戦はいずれも戦力が不十分なために進展せず、
結局オランダ軍は8月初旬に海上経由で撤退する


そんだけ


104 :大博打は必ず失敗する法則:2005/11/21(月) 20:37:21 ID:???
その後、スペインのアルブレヒト大公がオステンドの奪取を図ると、
マウリッツは彼としてはかつてないほど野心的な作戦によってスペイン軍の包囲を解こうとした
彼は5442名の騎兵と1万9000近い歩兵に増強された軍勢を率いてブラバントに進出し、
続いてフランドルを急襲してスペイン軍を撃破しようとした
作戦はマース河を渡河した直後に失敗した
オランダ軍は十分な馬糧を調達することができず、再びマース河を渡って帰らざるを得なかった
マウリッツは連邦共和国議会から作戦方針を防勢に転移するよう命ぜられ、戦争の主導権はスペイン側に、
しかもスペイン最良の将軍と謳われていたアムブローリョ・スピノラの手に移った
海上からの補給を受けたオステンド要塞の攻城戦が3年間も続く間、
共和国は東部戦線の脆弱な部分を補強するため土塁の防御線の拡張工事を開始した
しかしそれでも1609年に軍の主力を東部に移したスピノラを阻止できなかった
スペイン軍はオーフェルエイセルとヘルデルラントまで進出した
スペイン軍の進撃を阻んだのは共和国軍の決死の防戦ではなくひどい秋雨のおかげだった
この時点でスペインの経済が破産に近づいていることを知ったスピノラは敵対行動の中止を主唱し、
1607年4月、翌年末から12年間の条件で休戦協定が締結された
これはオランダ連邦共和国にとって孤独な戦いの終わりを意味した
1621年に再び戦端が開かれた時、戦いはドイツで起こっていた大戦争に包み込まれることになる


そんだけ


105 :獅子の臆病:2005/11/21(月) 20:37:58 ID:???
ニューポール戦の後、オランダの戦術ドクトリンが広く注目を集めた
連邦共和国軍はいまやヨーロッパ最良の軍隊と目され、一般にオランイェ家による兵制改革は
新教国にほとんど抵抗なく受け入れられた
スウェーデンではグスタフ・アドルフがマウリッツの手法を採用し、
これに修正を加えて特に攻撃的な機能を強化した
グスタフは当時の歩兵の衝撃力の強化に努め、攻撃的な役割を担わせることを実行した最初の軍人だった
この軍人王は主要な会戦のほとんどを自らが訓練し戦術を叩き込んだ傭兵によって戦ったが、
一方でそれまでささやかな民兵団に過ぎなかった国民徴募軍を本格的に増強した
軍事に関わる全ての面で、グスタフはオランダで専門知識を修得した将校たちの支援を受けていた
戦争に訴えようとする傾向はグスタフのほうがマウリッツよりはるかに強かったが、
グスタフの戦略的な概念もこの時代の制約を脱することはできなかった
グスタフは国王としてマウリッツよりはるかにスケールの大きい計画を立案することができたが、
彼もまた大胆とは無縁の常識的で慎重な将軍だった
彼のドイツにおける有名な会戦は全て要塞を巡る攻城戦の環境の中で行われ、彼の雄大な計画にもかかわらず、
実際の作戦は交通と補給の重要拠点を奪取し、それを保持する彼の能力によって決定された
クラウゼヴィッツはこうしたグスタフのスタイルを痛烈に批判し、グスタフを「大胆な征服者」ではなく
「戦術と機動、組織」に過剰な関心を抱き、これらを「注意深く組み合わせることに熱中した指揮官」と
やや気の毒な評価を下している


そんだけ


106 :名無し三等兵:2005/11/21(月) 21:02:36 ID:???
規制がかかったので続きはまたいずれ


107 :名無し三等兵:2005/11/21(月) 21:33:54 ID:???
む、規制かかりましたか(´・ω・`)
いつも、氏の書き込みを楽しみに読んでます。
近いうちにお願いします。

108 :はじめてのお勤め:2005/11/22(火) 13:32:21 ID:???
多くの伝記や軍事史によれば、1611年に17歳でスウェーデン国王を継承したグスタフ・アドルフは、
彼の軍隊が「訓練も不十分で規律も乱れた」貧弱な組織であることに気づいたという
スウェーデン軍の起源は50年ほど前のグスタフ・ヴァサとエリック14世の時代に遡る
彼らはオランダの兵制改革に先んじて封建軍と国王の傭兵軍で構成されていた国軍を国民常備軍に改編した
この軍隊は基本的に槍と銃が適当な比率で混成された小さな大隊に組織化されていたが、
これらの革新はヨーロッパの主流から余りにも遠く離れた辺境で起こったために、
周囲に大きな影響を与えることはなかったし、ほとんどは短命に終わった
その後、スウェーデン軍はデンマーク、ポーランド、ロシアとの間歇的な戦争で消耗していった
グスタフはオランダの兵制改革について知識を得ており、ヤーコブ・ド・ラ・ガルディの徒弟教育を受けていた
実際に当時のスウェーデン軍が度重なる戦争による消耗からの回復が追いついておらず、
組織の改革に着手する余裕すらなかったのは事実で、軍の再建こそが新国王グスタフの最優先事項であったのは
誰の目にも明らかだった
彼は直ちにポーランドと休戦を締結し、1613年には極めて不満足な条件ではあったが
デンマークとの戦争を解決した
ついでラ・ガルディを次席指揮官としてフィンランドで作戦し、1617年にロシアと何とか満足できる条件で
和平を得ることができた
3年後、グスタフは大幅に改善された軍を率いてオスマン・トルコ及びロシアと交戦中のポーランドに侵入した
しかし、短期間で容易に片付くと考えていた彼の目論見は大外れで、戦争は長期にわたる消耗戦となった
1622年、2年間の休戦によって戦争は中断されたが、その後戦争は1629年まで続き、
その年の休戦によってようやく終結した
当時ドイツで起こった大戦争がスウェーデンにとって好機であり同時に脅威であると感じていたグスタフは
この短い平和の訪来を期に軍の改編に着手した


そんだけ


109 :冴えたやり方:2005/11/22(火) 13:33:19 ID:???
1625年、グスタフは動員組織の全面的な再検討を行い、地方協会が18歳から40歳までの男子の名簿を
管理するカントン制が導入された
通常、10名に1名の割合で召集され、家族と職業事情による免責があった
国内勤務は無報酬で、歩兵には土地が割り当てられた
騎兵は貴族や富農から募集され、都市部の住民は主に拡張された海軍に勤務した
装備は兵役に就かない人々に対する税金で調達された
この制度は、ヨーロッパではじめて4万人に達する実質的な長期勤務国民軍を作り出した
まるで良いことずくめのように見えるこの動員システムの唯一にして致命的な問題は、
人口150万程度の小国がこのような真似をしてただで済むわけがないことを
グスタフが予想できていなかったことだった
この種の国民軍はより小規模でかつ任務が国土防衛に限定されている程度ならば何とか役に立ったが、
そのことにグスタフが気づいた時には、スウェーデンの農村部の人口資源は文字通り破壊され、
その損失を回復するのに数世代を費やす羽目になっていた
結局、スウェーデン軍でもなお傭兵が中核を占め続けていた


そんだけ


110 :エイリアン・ネイション:2005/11/22(火) 13:33:52 ID:???
1627年の法令で「国家はその国民によって最も良く守られる」と示され、
グスタフ自身も「外国人傭兵は信頼が置けず危険で高価である」と言明していたにもかかわらず、
ポーメルンに出航する前から、イギリス、スコットランド、ドイツで傭兵の募集が行われていた
傭兵は常にスウェーデン軍の大部分を占め、常に戦闘の決定的な焦点に投入された
数少ないスウェーデン本国兵は後方連絡線を防衛する戦略予備として拘置されていた
モンテクッコリは「港湾の全てがスウェーデン人の司令官と守備兵によって守られ、
彼らはフィンランド人、リヴォニア人、ドイツ人のいずれも信用していなかった」と記している
1632年にグスタフが戦死するまでに大陸に展開したスウェーデン軍とその同盟軍12万のうち、
スウェーデン兵は1割にも満たなかった
外国人傭兵の多くがスウェーデンの戦術により訓練されたが、その戦術ドクトリンはグスタフ自らが
編み出したスウェーデン軍独自のものではなかった
それは実質的にはドイツで提唱されていたマウリッツ・モデルの改良型ではあったが、
1631年のブライテンフェルト戦で初めて大規模に実戦に供され、ヨーロッパ列強の陸軍に
戦術ドクトリンの変更を余儀なくさせることになる


そんだけ


111 :ブレーメンズ:2005/11/22(火) 13:34:18 ID:???
グスタフの戦術ドクトリンは攻勢に重点が置かれていたが、あまりにしばしば改められたために、
一般的に当てはまるスタイルというものは存在しなかった
2個大隊または8個中隊からなる歩兵連隊は基本的な管理上の編制単位であり、戦術遂行の単位部隊でもあった
戦闘編成として2〜3個連隊で1個旅団が編成された
連隊は独立的な任務のために大口径銃を装備したマスケット中隊94名を加えて約800名の歩兵で構成された
通常、銃兵と重槍兵はいずれも縦深6列の比較的薄い戦闘隊形に展開し、旅団は漸進斉射で前進し、
重槍兵が最終的な突撃を行った
彼我の距離が接近すると、それまでの銃兵の間断のない漸進斉射から、
マスケット兵の発射速度は低いが巨大な音響と質量を伴った一斉射撃に代わった
突撃は隊列を維持したまま駆足で行えるよう訓練された騎兵は、マスケット兵に支援され、
砲兵が敵の戦列の正面に砲撃を加えている間に敵の翼に対して攻撃するように運用された
ブライテンフェルト戦の後、歩兵直協用に4ポンド軽連隊砲が導入された
騎兵と歩兵の予備隊は後方に拘置されていた
これは効果的だが非常に複雑な戦術システムだった
精力と意志、決断と独創に優れた偉大な野戦指揮官であるグスタフでさえ、
完全にコントロールすることは難しかった
にもかかわらず、スウェーデンの戦術は次の世紀の全ての野戦指揮官にとって模範となった


そんだけ


112 :武士は食わないと死ぬ:2005/11/22(火) 13:34:49 ID:???
新生スウェーデン軍は、戦略的手段としては余り効果的とは言えなかった
グスタフは軍隊の移動が規律に基づき、その規律は効果的な軍事行政に基づくことを認めていたが、
スウェーデンの軍事情勢はこの局面では依然として不安定だった
訓練は高い水準に達し、傭兵たちも訓練を受け入れていたが、同盟軍はそうとは限らなかった
規律に関して、グスタフは1621年に厳しい軍法を導入し、従軍牧師、日課の祈り、
その他の道徳的制裁がこれを裏付けていた
しかし、1630年の時点でさえ規律は低下しつつあった
規律の低下は傭兵が軍隊の大部分を占めていた(事実、スウェーデン兵は外国人傭兵よりも幾分規律が良かった)
からではなく、軍隊を適切に支援する能力を欠いていたからだった
グスタフは入念な兵站計画と準備を行っていたが、スウェーデンの財源はドイツで膨張する戦線に
補給を行うことができなかった
フランスとオランダの資金援助もスウェーデン軍の状況を好転させることはできなかった
更に軍資金が入手できるようになっても、調達と輸送の問題が残されていた
1631年春までにスウェーデン軍はプロテスタントの町を略奪するようになり、
夏には給料未払いのために餓えたスウェーデン軍部隊が地方の他のスウェーデン軍の補給集積所を
食い荒らすようになっていた
戦場での規律と統率は戦争が終わるまで維持されていたが、スウェーデン軍もその時代の他の軍隊と同じように
ドイツで糧を求めなければならなかった
豊かな地域でさえ喰い尽くしてしまうことによって、作戦的な要求よりむしろ食の当ての確保のために
移動を余儀なくされるようになり、結果としてグスタフの大戦略は机上の計画に過ぎなくなっていた


そんだけ


113 :真打:2005/11/22(火) 13:35:15 ID:???
三十年戦争はカトリックとプロテスタントの争い、またはドイツにおける皇帝権力を巡る戦いとして始まったが、
グスタフがオーデル河口に上陸した1630年夏には既に国際的戦争になっていた
最初にハプスブルグ家が勝利を獲得したことにより、皇帝権力の復活に対抗するため
フランス、イギリス、デンマーク及びドイツの弱小なプロテスタント諸侯の緩やかな連合が結成された
しかし、このまとまりのない陣営は戦争実業家アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインと
カトリック同盟軍を率いるヨハン・ティリーの率いる皇帝軍によって粉砕された
1627年までに皇帝はバルト海南沿岸の殆どの地域の支配権を奪回した
デンマーク軍とスウェーデン軍によって増強されたストラルズンドをはじめとする少数の港だけが
何とか持ちこたえることができた
バルト海に帝国の覇権が及ぶことに脅威を感じたグスタフは、プロテスタントの教義の運命がかかっており、
国内で戦うよりも国外で戦うほうがよいという理由でドイツへの遠征を計画していることを議会で表明した
1629年までにはドイツに対する全面的干渉の準備が進行していた
戦略的な状況は有利なように見えた
皇帝フェルディナンド2世はドイツにおける戦争は終わったのも同然と考えて、イタリアでフランスと
戦おうとしていた
ヴァレンシュタインは解雇され、ティリーには北部の分散した幾つかの要塞のみが残された
グスタフは一つの賭けをした
彼の遠征軍は僅か1万3000しか召集することができなかった
しかし、スコットランドとデンマークに送り込まれた彼の募兵官たちは多くの兵士を集めていたし、
ドイツの諸侯からの援助も期待できた


そんだけ


114 :作戦準備:2005/11/22(火) 13:35:40 ID:???
しかし、ことはグスタフの思惑通りにはいかなかった
ドイツ北部における主要な二人のプロテスタントの諸侯であるブランデンブルクとザクセンの選帝侯は
中立的立場をとることを決定していた
このため、グスタフは長期戦になりかねない戦略を余儀なくされた
兵站と本国への後方連絡線を維持する必要と、デンマークやロシアの潜在的脅威に対する懸念が
グスタフの戦争計画に厳しい制約を課すことになった
後方連絡線の維持のために、河川沿いに移動し、進路沿いの緊要な地域の安全を確保しなければならなかった
デンマークやロシアへの備えのためにドイツ北部に要塞地域を確保し、本国には防衛のための部隊を
貼り付けておかなければならなかった
グスタフは河川沿いに位置していないストラルズンドから作戦を開始せず、オーデル河口沿いのはるか東から
作戦を開始した


そんだけ


115 :計画の時が一番楽しい:2005/11/22(火) 13:36:09 ID:???
グスタフはブランデンブルクとザクセンを同盟に組み込むため、
メクレンブルクとポーメルン西部のティリーの要塞群の側面から圧力をかけようと計画した
抵抗を受けることなく上陸した後、スウェーデン軍は7月上旬にオーデル河口上流のシュテチンに入った
1630年末までに幾つかの小さな町を制圧し、徐々に支配地域を拡大していった
このことは必要なことではあったが自滅的でもあった
グスタフが支配地域を拡大するにつれて彼の野戦軍は分散していった
そして、こうしたゆっくりとした事態の進行は、結局は二人の選帝侯の慎重な中立を動かすことに失敗した
グスタフは一つの機会を永遠に失うことになった
グスタフの野戦軍は少なかったが、彼の対抗者であるティリーの兵力もまた少なくしかも分散していた
更にエルベ河中流の豊かな戦略的要衝であるマグデブルクで反乱に直面していた
グスタフが速やかにエルベ河に前進できていれば、ティリーに決戦を強要することができた
しかし、そうすることもなくスウェーデン軍は10月にポーメルンとメクレンブルクで冬営に入った
およそこの時期に、グスタフは翌年の壮大な大戦略計画を練っていた
その構想は、ドイツの中心部に向けて5個軍総兵力10万以上を何本もの河川沿いに
円を次第に絞るように進攻させるというものだった
後に多くの軍事史家が「ナポレオンのように雄壮」と感嘆したこの計画には実質が伴っていなかった
グスタフはこの計画を実行するための戦略的地位も兵力も持っていなかった
グスタフは新しい部隊を作り上げる自己の能力を甚だ過大に見積もっていたし、
距離、連絡、補給と彼の軍隊の作戦機動能力との間の相互関係を理解していなかった


そんだけ


116 :プロテクタ:2005/11/22(火) 13:36:35 ID:???
補給の欠乏により早期に冬営から出撃せざるを得なくなった時でさえ、グスタフはティリーの野戦軍と
交戦しようとはしなかった
彼はそれよりもティリーにマグデブルクの封鎖を解かせようとオーデル河口沿いとメクレンブルク西部で
限定的な作戦を実施した
1631年3月上旬にティリーはグスタフと戦うために1万2000の野戦軍を動かした
しかしグスタフは手許に1万8000の野戦軍を持ちながら決戦を回避した
これは明らかにグスタフの軍人としての経歴上の最も明白な大失策の一つとなった
後にクラウゼヴィッツが軽蔑的に「戦略機動によって戦勝を得ようとする新しい方法」と述べた実例だった
グスタフは小さな町を奪取しながらオーデル河沿いに上流に向かって進撃した
4月3日、スウェーデン軍はオーデル河沿いのフランクフルトを強襲してその守備隊を殺戮し、
更にプロテスタント市民に対して略奪を行った
グスタフが明らかに安全な退路を念頭になお用心深く機動していた5月20日、
皇帝軍はマグデブルクを占領した
マグデブルク占領に伴った略奪は、陥落後の略奪が当たり前の17世紀においてさえ有名な事件となった
2万5000の市民が虐殺され、教会堂を除く全ての建造物が破壊された
この事件はドイツのプロテスタントの保護者を自任していたグスタフの立場を大きく傷つけた
事態を放置できなくなったグスタフは、ついにキュストリンとスパンダウの要塞を自由に使えるように
ブランデンブルク選帝侯に圧力をかけ、更にオーデル河下流の守備隊を増強し、
エルベ河に向かって大きく転進した
7月にティリーはハーフェル、エルベ両河の中間に位置するプロテスタントの拠点ヴェルベンを攻撃した
この攻撃は失敗に終わったが、主作戦ではなかった
皇帝軍はイタリアからの増援を待ってザクセンに侵攻し、ヨハン・ゲオルグ選帝侯に対して
旗色を明らかにするよう要求した
この脅迫じみた行為がやっと選帝侯をグスタフの支援に踏み切らせることになる


そんだけ


117 :狐と葡萄:2005/11/22(火) 13:37:05 ID:???
グスタフはザクセン軍を加えて前進し、1631年9月17日、両軍主力はブライテンフェルトで衝突した
ザクセン軍は戦闘の初期段階で逃走したが、スウェーデン軍は5時間にわたる戦闘の末に大勝利を収めた
しかし、この輝かしい勝利の成果は十分に活用されることはなかった
グスタフは、撤退するティリーの敗残兵を即時に追撃しようとはしなかった
戦闘の一週間後にハレで開かれた戦争会議でティリーの野戦軍への追撃は否決され、
今後の方針としてボヘミア山脈を越えてウィーンに進撃するか、または南西に向かって下部パラチナート及び
ラインラントに進撃すべきかが討議された
ウィーンへの進攻は皇帝権力の心臓を直接打撃できるが、グスタフは、冬が近いことと、
弱体なザクセン軍にスウェーデン軍の背後を任せることの危険性を考慮し、南西への進軍を決心した
そうすればスウェーデン軍は豊かな地域に駐屯することができ、しかも東のバイエルン軍と
西から来るかもしれないハプスブルグの増援軍との連絡を遮断できる緊要な地点を占めることができた
ヨハン・ゲオルグがボヘミアとシレージエンに対して監視のために軍を貼り付けている間に、スウェーデン軍の
北部の後方連絡線の安全を確保するため、マグデブルク周辺とドイツ交通網の要点であるエルフルトに
分遣隊が配置された


そんだけ


118 :部外者の文句が一番うるさい:2005/11/22(火) 13:37:46 ID:???
後に一部の批評家たちによって、グスタフは戦果拡張を行わなかったことを非難されてきた
ライン地方やウィーンよりもティリーの軍勢のほうが重要な目標だったはずであり、
実際に皇帝がヴァレンシュタインとボヘミアで新しい軍を組織する契約を急いで取り決めている冬の間に、
ティリーと彼の副将パッペンハイムは新しい部隊を編成することができた
しかし、グスタフは17世紀ドイツの貧弱な兵站基盤を考慮に入れた当時の野戦指揮官としては
至極常識的な判断に従って、後背の安全を確保することを重視していた
ライン河へ前進し、ハプスブルグ、バイエルン及びスペインの小規模な要塞を排除しつつ、
グスタフは間もなくラインラントを占領した
この一連の攻囲作戦は、ほとんど攻撃築城や準備砲撃に頼ることなく恫喝的な交渉と急襲を
巧妙に混用することで遂行されたが、これは彼の攻囲作戦の特徴でもあった
1631年10月末頃になると、グスタフは再び来年の野心的な計画を練っていた
彼は7個軍がヴィスワ河からブレンネル峠へ、グロガウからコンスタンツ湖へと三日月形に前線を展開して
連携攻撃を実施する大包囲作戦を構想した
グスタフが直接指揮する主力は、ボヘミアとシレージエンのザクセン軍が機動の起点を確保している間に
バイエルンに進入し、引き続きドナウ河沿いにウィーンに進軍する予定だった
スウェーデン軍の分遣隊はドイツ北西部の皇帝軍を牽制し、他の部隊は本国への後方連絡線を防衛する
手筈だった
当てにならないザクセン軍を除いても約12万の兵力を使用できるはずだったし、
晩春までに猛烈な召集を行って兵力を17万まで増強できると見積られていた
一方で常に慎重な彼は、企図していた大計画が達成されなかった場合に備えて、北をドナウ河、東をレヒ河、
南をアルプス山麓に囲まれた全地域が攻勢防御拠点「セッデム・ベリ」になるよう計画していた


そんだけ


119 :渡世の仁義:2005/11/22(火) 13:38:13 ID:???
1633年3月、グスタフは再び出撃し、4月10日にバイエルン最西部の要塞ドナウヴェルトを急襲し、
5日後に戦術的傑作と評されることになるレヒ河の強行渡河を行った
しかし、この成功も決定的ではなかった
ティリー自身は致命傷を受けたがバイエルン軍はただ下流に後退しただけだった
スウェーデン軍は要塞インゴルシュタットまで進出したが、ここで強力な要塞の攻略を断念したグスタフは
その側面を迂回してバイエルンとシュワーベンのほんの一部を占領したのみにとどまり戦略的な主導権を失った
この閉塞の最大の要因は、ウィーンに向けて前進を継続する衝力を欠いていたことにあった
彼はまだ強力な野戦軍を指揮していたが、新兵の募集は失敗し、手持ちの部隊は分散しすぎて
効果的な調整がとれなかった
ブライテンフェルト戦でティリーの軍勢を完全に撃滅できなかったため、皇帝軍は勢力を回復していた
スウェーデン軍は、敵の新手の軍勢、特にモラヴィアでヴァレンシュタインが驚くべき短期間で
動員した強力な野戦軍と直面することになった
更に、この頃になるとグスタフは同盟国に警戒を抱かせるようになっていた
ライン河沿いでスウェーデン軍が行動したことは、1631年1月以来のグスタフの経済的支援者である
フランスとの不和の原因となり、一方でグスタフがアルプスの峠道を支配しようとしたことは
それを生命線とするスイス諸州との関係を疎遠にしていた
更に、ブランデンブルクとザクセン選帝侯は、ヴァレンシュタインの工作によって動揺していた


そんだけ


120 ::2005/11/22(火) 13:38:47 ID:???
グスタフが北部バイエルン地方を荒らしまわることでヴァレンシュタインを釣り上げようとしたが、
ヴァレンシュタインのほうが一枚上手だった
スウェーデン軍の弱点を完全に理解していたヴァレンシュタインは、ボヘミアに機動して
ザクセン軍を簡単に駆逐し、その後驚異的な急進撃で南に転回してエーゲルでバイエルン軍と連携した
ザクセンの喪失はグスタフと本国との連絡の遮断を意味しており、それはグスタフにとって
絶対に避けなければならないことだった
スウェーデン本国から宰相オクセンシェーナは、必要ならば連絡線から離れてでもドナウ河沿いに
ウィーンを衝くよう王を説得していた
オクセンシェーナは、ウィーンへの前進を継続する限り、例え北ドイツを失っても構わないと主張した
しかし、慎重なグスタフは危険を冒さなかった
グスタフはバイエルン軍とヴァレンシュタイン軍の連携の妨害に失敗したため、
ニュルンベルク近郊に陣地を構築した
ヴァレンシュタインはグスタフを追尾し、スウェーデン軍の陣地の近くで野営に入った
ヴァレンシュタインは、スウェーデン軍の戦術ドクトリンが火力に保証された機動の発揮に依存しており、
そして戦略レベルでは安全な後背地と後方連絡線の維持がグスタフの野戦軍の作戦を保証していることを
理解していた


そんだけ


121 :オセロ:2005/11/22(火) 13:39:14 ID:???
ヴァレンシュタインは、スウェーデン軍が後方連絡線の維持に費やしている努力が時間の経過とともに
耐え難いまでに増大し、やがては野戦軍の行動に制約を課すようになることを承知していた
さらに彼は、戦場でスウェーデン軍に対しては徹底した陣地防御以外にないと判断していた
こうしたヴァレンシュタインの思惑の結果、両軍は長く睨み合うことになった
膠着状態は6週間に及び、両軍に飢餓と疫病が蔓延しつつあった
9月3日、グスタフは皇帝軍野営地に対して大規模な夜襲をかけ、この決死的な攻撃は大損害を受けて失敗した
グスタフは非常に際どい状態に陥っていた
ヴァレンシュタインがプロテスタントの領域に危険なほど近接していたので、
グスタフはヴァレンシュタインを南に誘引するためにウィーンへの進撃を再開した
ヴァレンシュタインはグスタフを無視し、ザクセンに進んでライプチヒを奪取し略奪を始めた
ヴァレンシュタインは再び戦略においてグスタフよりも優位にあることを証明した
皇帝軍がウィーンを失うより、グスタフがザクセンを失うことのほうがはるかに重大だった
戦争の主導権は明らかにヴァレンシュタインにあった
グスタフは急いで北に反転し、20日間で430キロも前進した
これは素晴らしい離れ業だったが、グスタフが率いていた兵力は僅か1万8000に過ぎなかった
補給の困難と皇帝軍の襲撃に備える必要から、兵力を削がれたからだった
グスタフにはドイツで最も忠実な同盟国ザックス・ヴァイマールのベルナルト公率いる派遣軍が加わったが、
ザクセン選帝侯はスウェーデン軍との合流の要請を全て無視して軍の大部分をトルゴウに引き揚げていた


そんだけ


122 :死に上手:2005/11/22(火) 13:39:57 ID:???
時は既に11月に入ろうとしており、ヴァレンシュタインは冬営のために部隊を解散しようとしていた
これを知ったグスタフは決戦を決意し、1632年11月6日、ザクセンの同盟軍の支援も受けずに
ライプチヒ南西のリュッツェンで最後の戦闘に臨んだ
スウェーデン軍は皇帝軍主力を撃破したが、グスタフは戦場で端武者のように殺された
この時グスタフは37歳で、輝かしい経歴の軍人にとってふさわしい最期だったが、
彼がリュッツェンに至る以前に、既に彼の戦争計画は頓挫していた
仮にグスタフが生き残り、再び同盟諸国の忠誠を獲得して続く戦いに勝利できたとしても、
戦争に勝てたとは考えにくい
中欧の交通網と農業資源では、グスタフの計画していた規模の作戦は不可能だった
補給物資が事前に貯蔵されるか、または川舟で輸送されるのでなければ、
長期間にわたる大規模な軍隊の行動は戦略的な判断よりも兵站の都合のほうが常に優先された
更に当時の軍隊の移動は非常に緩慢で、特に重装備を水路ではなく陸路で輸送しなければならない場合には
一層ひどくなった
一世代後のマールボローでさえ、一つの主作戦で戦争を終わらせることはできなかった
ブレンハイムやラミイで大勝利を得ても、翌年には再び会戦を戦わなければならなかった
グスタフは1630年と1631年のキャンペーンで時折これらの拘束を無視しようと務めたが、
結局はこれらの拘束に従わなければならなかった
グスタフの戦略アプローチは、この時代の戦略を乗り越えるものではなく、
まさしくこの時代の戦略の典型だった


そんだけ


123 :名無し三等兵:2005/11/22(火) 14:05:52 ID:???
連投支援

124 :知力75武力75:2005/11/22(火) 17:06:48 ID:???
オーストリア・ハプスブルグ家の軍隊の中将で陸軍元帥でもあったレイモンド・モンテクッコリは、
1664年のザンクト・ゴットハルト戦の勝者で、1673年にテュレンヌに作戦勝ちした機動戦の大家で、
ハプスブルグ常備軍創設者の一人に数えられる有能な行政官だった
もっとも、モンテクッコリを歴史上最も偉大な将帥の一人に数えるのはちょっと持ち上げすぎで、
確かにザンクト・ゴットハルトは大勝利だったが1683年のウィーン近郊でのトルコ軍撃退ほどではないし、
テュレンヌに対する手際も2年後の戦いでは繰り返されなかった
行政官としても、モンテクッコリはハプスブルグ官僚制固有の緩慢さを克服することはできなかった
ただし彼は、戦争のあらゆる局面について総合的な分析を試みた近世ヨーロッパ最初の理論家だった
モンテクッコリは、その著書の中で法則と体系の考察を重視する普遍的なパラダイム、
すなわち経験から導き出される科学、軍事、政治のあらゆる知識の結合を追求した
ただしその求め方は、あくまで彼が忠実な信者であったカトリック教会の枠内に留まっていた
モンテクッコリは、彼の原則が正しく適用されれば作戦行動は予見でき、費用と損害も節約できると
期待していた
勿論そんなことは不可能であり、彼の考え方には頑なな独断の傾向があった
しかし、書いたうちのほんの一部が刊行されたに過ぎない彼の著書は、フリードリヒ2世やシャルンホルスト、
ナポレオンの本棚に必ず並べられていた


そんだけ


125 :臑飛一町:2005/11/22(火) 17:07:35 ID:???
モンテクッコリの著作が非常に広く受け入れられた最大の理由は、彼が機動戦の達人として高い名声を
得ていたからだった
テュレンヌに対する彼の作戦は特に賞賛された
機動戦に否定的なクラウゼヴィッツでさえ、機動戦は時には必要であり、1673年と1675年の
モンテクッコリのキャンペーンは「この戦略機動の最も輝かしいもの」であったと認めている
生前のモンテクッコリは、臆病な指揮官、「のろまなファビウス」としてしばしば攻撃されたが、
彼自身はそのような非難を意に介さなかった
彼は「誰でも指揮官や軍事評論家になりたがる」と記し、それどころか「負けが込むようなら戦い方を変え、
その間は消耗戦に持ち込むことが必要であり、そのためには執政ファビウスに学ばなければならない」と
切り返している
もっとも、消耗戦略は彼の唯一の戦略姿勢ではなかったし、好ましい条件下では彼は決戦を躊躇しなかった
「戦争が戦闘なしに遂行されるものだと思い違いをしている人々がいるが、
征服や紛争の解決は戦闘によってしか達成できないし、その反対のことを信じることは幻想に過ぎない」
それどころか、彼は小競り合いではなく堂々の決戦についても記している
トルコと戦っていた頃、彼はハンガリーの指揮官たちが好んで多用していた急襲、襲撃、伏撃等の
戦い方について痛烈に論争している
そのような戦いは決定的なものではないからだった
彼は、「もしそのような流儀で戦うならば、それは影をつかむようなもので実体を見失うだろう」と警告している
しかし、決戦は決定的なものであり、「王たちの争いにやり直しのきかない判決を下し、戦争を終わらせ、
指揮官の名を永久に残すものである」から軽々しく応じるべきではないとも述べている
モンテクッコリは、後にデルブリュックが述べた消耗戦と殲滅戦のように、
戦争には相対する二極があることを認めており、自己の理論の中でこの二極を包括しようとしていた


そんだけ


126 :戦巧者:2005/11/22(火) 17:08:03 ID:???
1609年、モンテクッコリはエミリア・ロマーニャ地方モディナの下級貴族の息子として生まれた
彼の経歴は16歳のとき一兵卒で始まり、1632年に騎兵中佐、1635年には大佐に昇進し、
三十年戦争が終わる前に将軍になった
彼は幾つかの主要な会戦に参加し、ブライテンフェルトでは負傷し捕虜になった
6ヵ月後に釈放された彼は、1632年にノルトリンゲンで功績を積み、
1636年のヴィトシュトックで皇帝軍の後退を掩護して手柄を立てた
1639年、メルニックで後衛戦闘中に負傷してスウェーデン軍の捕虜となり、
シュテチンで3年間捕虜生活を送った
彼は捕虜時代に研究を続け、彼の著作の中で最も早い時期の二つの著書「戦闘論」と「戦争論」を完成した
釈放後、彼は少将に昇進したが、教皇領とモディナ公国の紛争に際してモディナ軍の指揮官となるために
願い出て皇帝軍を辞している
1643年に皇帝軍に復帰し、戦争末期には騎兵指揮官として着実に功績を積んだ
ウエストファリア平和条約で彼は外交に従事し、第一次北方戦争ではポーランドを支援するオーストリア軍の
支隊を指揮した
その後彼はハンガリーで幾つかの地位を経て、1663年のトルコの攻勢の際にはオーストリア軍、皇帝軍、
フランス軍の連合軍を指揮した
1664年8月1日、彼はザンクト・ゴットハルトで優勢な敵軍を撃破し、皇帝によって中将に任命された
1668年には最高軍事会議の議長に任命され、オーストリア陸軍の軍人として頂点を極めたことになった
対フランス戦争では1673年にティレンヌを翻弄し、1675年に再び野戦指揮官になったが、
この時はそれまでに比べて余り成功したとは言い難かった
その後、彼に対する非難と健康を害したこともあってオーストリアに戻り、1680年に没した


そんだけ


127 :マネジメント:2005/11/22(火) 17:08:30 ID:???
その生涯においてモンテクッコリの戦い方は変化していった
1648年頃まで、彼はバナーやトルステンソンをモデルにした大胆な騎兵指揮官だった
独立した指揮権を手に入れるに従って彼はより慎重になっていった
当時のオーストリア常備軍の勢力はわずかに9個歩兵連隊と10個騎兵連隊のみで、
訓練を積んだ兵員の補充が困難であることを十分承知していたので、常に自分の部隊を節約して使った
北方戦争でもそうだったし、ハンガリーでは連合作戦につきものの指揮命令上の困難と戦いながら
戦力の節用に努めた
ハンガリー人との人間関係、特にミクロス・ツリィニーのような有力者との付き合いは緊張した
モンテクッコリはハンガリーを統治する困難について、「(マジャール人は)気が変わりやすく強情で恩知らずで
無規律で騒々しい」人種なので、厳しい統制が必要だと記している
このことがハンガリーの愛国者と19世紀の歴史家たちが彼を嫌悪した理由となった
彼らはモンテクッコリの統帥を誹謗し、更に彼の機動戦略を中傷して「メトディズム(形式主義)」という
言葉まで発明した


そんだけ


128 :だんしんぐおーるないと:2005/11/22(火) 17:09:18 ID:???
ナポレオン以前のフランスで最も偉大な将軍とも評されるティレンヌに対する作戦が成功したのは、
まさしくこの戦略によってだった
1673年のティレンヌの任務は、皇帝軍がライン河を渡河してアルザスに侵入することを防ぐことと、
低地帯のオランダ軍と連携するために北部に移動するモンテクッコリを阻止することだった
ティレンヌはモンテクッコリの機先を制するためにライン河を渡河してヴェルツブルクに移動した
最初の会敵でモンテクッコリはティレンヌを欺いた
積極的に攻撃準備を進めておきながら土壇場で交戦を回避し、ライン河に向かってマイン河沿いに行動して
フランス軍の補給拠点を奪取した
続いてモンテクッコリがライン河強行渡河の準備を始めたため、フランス軍はアルザスの防衛に急行したが、
皇帝軍は艀に乗ってそのまま河を下りオランダ軍と合流した
皇帝・オランダ連合軍は、ティレンヌがアルザスで兵力を再編成しているうちに、
オランダに駐屯していた弱体なフランス軍を追い出した
この成功と対照的に、1675年にはモンテクッコリはいくつか素晴らしい行動を示したものの、
全般的に状況はティレンヌが優勢だった
ただし、ティレンヌが戦死したためにフランス軍の優位は無に帰することになる


そんだけ


129 :だから言ったのに:2005/11/22(火) 17:09:46 ID:???
1675年からモンテクッコリの立場は更に困難なものになった
最高軍事会議の議長である彼は、強力な既得権を持つ宮廷官僚や終わりのない書類の往来と
取り組まなければならなかった
彼はこのことを「一時間でできること、しなければならないことを一年かかってやる連中」と記している
彼は小兵力の常備軍の維持、連隊砲やフリントロック銃のような新装備の導入についてさえ、
資金繰りのために戦わなければならなかった
彼は軍隊を国家安全保障の唯一の手段と考え、その安全保障によって「芸術や商業が繁栄するのであって、
軍備を疎かにすれば国家の安全も保障されないし、国家の力も名誉もない」と述べている
このことはオーストリアにとって特に重要なことで、「ヨーロッパでオーストリアのように多くの敵と
直面している国はなかった」からだった
モンテクッコリは、常備連隊の平時編制を将校のみとし、開戦時に兵員を急遽補充する慣行に反対していた
彼は、「訓練された解体されることのない」老練な部隊のみが信頼できる戦力であり、
新たに召集された部隊は「烏合の衆に過ぎず、未経験で規律に欠けた名前だけの軍隊」だと主張している
しかし、彼の勧告は受け入れられなかった
1679年のナイメーヘン条約の後、オーストリアは軍隊を解散したため、1683年、ハンガリーにおいて
弱体化した皇帝軍は明らかに戦術的に劣っていたトルコ軍に一蹴され、そのままウィーンを包囲されてしまった
トルコ軍にとって、強力な要塞ではないが防備を固めた大都市を包囲したことが戦略的な失策となった
兵站能力の限界で行動していたトルコ軍は都市を占領するには兵力不足で、結局ウィーンはヨーロッパ各国の
連合軍によって救援されるまで持ちこたえることができた
この包囲の間、常備軍が防衛の中核となり、1683年以降ハンガリーからトルコ軍を撃退した際に
オーストリア軍の先頭に立ったのがこれら常備兵だった
モンテクッコリは正しかったが、彼の努力にもかかわらず、ハプスブルグ家の常備軍は少しも増強されなかった
彼の主要な遺産は、ロレーヌのフランシス、シュタルヘムベルクのリュディゲル、バーデンのルイ、
そして恐らくはサヴォイのユジェーヌ等の後継者のために彼が作った規範の中にあり、
何よりも彼の著作の中にあった


そんだけ


130 :ライター:2005/11/22(火) 17:15:10 ID:???
モンテクッコリの著作活動は三十年にわたり、主に1640年から1642年、1649年から1654年、
1665年から1670年の三つの時期に集中している
最初の時期に彼は「戦闘論」と「戦争論」を、次の時期に「戦争術」の概論と「戦闘論」第二版を著した
彼の最も有名な著作である「ハンガリーにおける対トルコ戦争論」は「戦争術の格言」の題名でよく知られ、
トルコに対する将来戦についての考えが述べられており、1670年に完成した
モンテクッコリの著作はウィーンの上流政治家や軍人の間に原稿の形で出回っていたようで、
彼の生前には出版されなかった
17世紀の初期に、「ハンガリーにおける対トルコ戦争論」は彼の他の著作からの抜粋を加えられて
イタリア語七版、ラテン語二版、スペイン語二版、フランス語六版、ロシア語一版、ドイツ語二版が出版され、
彼の軍事理論家としての名声を確立した
モンテクッコリの思考は帰納的で、「私はリプシウスの方法について多くを学び、現代の一流著者の他にも
主要な古代歴史家の著書を注意深く読み、これらの読書に私は連続15年の軍隊経験から得た実例を加えた」
と記している


そんだけ


131 :方針:2005/11/22(火) 17:15:45 ID:???
彼が読んだ本の著者のリストは挙げられていないが、「ハンガリーにおける対トルコ戦争論」の脚注によれば、
彼の出典は同時代だけでなく古代ギリシャとローマ、中世後期及びルネサンスに及んでいる
古代の著者にはアイネイアス・タクティクス、ヘロドトス、ツキジデス、クセノフォン、カエサル、エリアン、
フロンティヌス、ポリュビオス、ヴェゲティウスが含まれている
中世の著述家コミンやフロサワールは歴史的描写の参考にとどめられている
当然ながら同時代の著述家や同時代の事例はしばしば引用されているが、モンテクッコリは最初から
自説が彼の先達たちよりも実践的で総合的であると主張することに腐心していた
「戦争論」の中で彼は次のように述べている
「古代や現代で多くの人が戦争について書を著しているが、ほとんどは理論の域を出ておらず、
バスタ、メルツィ、ロアン、ラ・ヌー等、幾人かの著述家は実践と理論を結合させているが、
非常に広範囲の分野の一部分のみを明らかにしているに過ぎず、または具体的な作戦の細部に及ぶことなく
一般論にとどまっている
具体的な作戦についての詳細な知識が一人前の指揮官を育て上げる
結局、構成要素の部分を理解しなければ、全体を理解することは不可能である」
彼の著作は、全体を通じてこのアプローチを堅持すると同時に、一般論と具体的事象が一体のものと
見なされるようにする点で一貫していた


そんだけ


132 :存在しない上司こそ理想の上司:2005/11/22(火) 17:16:36 ID:???
彼の宇宙観と政治観及び戦争観は現実的なものだった
彼は戦争を巨大な悪と認めていたが、戦争は自然界の一部分であると見なしていた
「哲学者は戦争の常態が自然界に存在するか否かを議論するが、政治家は一方が他方を抑圧するか抑圧されるか、
殺すか滅ぼされるかのように競い合う列強間で、真の平和はありえないことを疑うことはできない」
しかしながら、闘争には様々な段階があり、彼は「戦争論」の中で、闘争を対外戦争と内戦、
侵略戦争と防衛戦争、間接的手段による敵対行動等に区分した
彼は反乱による国家滅亡の危険性を警告し、軍事行動よりも社会的・政治的解決が望ましいことを勧告している
「もし国王が暴君でなければ、裏切りや陰謀を受けることはない」
モンテクッコリは、戦争を「外国の国王または人民に対する力または軍事力の行使」と定義した
また、戦争術とは「十分に戦って勝利を得る能力」であり、先行して準備することが必要で、
かつてジャン・ヤコポ・トリヴルチオがフランスのルイ12世に対して言った言葉を引用している
「金、金、金こそが戦争の鍵である」
彼はまた、指揮官はその地位と資質によって選ばれなくてはならず、その資質には部下を鼓舞する統率力と
素早い決断力が含まれていなければならないと述べ、更に、戦争は国家の生死に関わる重大事であるから、
「国王や国家は指揮官が速やかに行動し機会を利用できるよう自主裁量を与えなければならない」
と熱心に主張した


そんだけ


133 :超人願望:2005/11/22(火) 17:17:20 ID:???
モンテクッコリの最も多く引用される所説は格言の形で「ハンガリーにおける対トルコ戦争論」の中に
示されているが、これはそれまでの見解の繰り返しだった
彼は、戦争とは「相対する敵が相互に可能なあらゆる手段で損害を与えようとする活動であり、
戦闘の目的は勝利を獲得することである」と理解していた
戦争の性格や段階が何であろうと、その勝利は準備と計画、作戦運用によって左右された
戦争の準備は人力、装備、経済を含んだ
計画は彼我の戦力比、戦場、戦争の目標に依存した
作戦運用は、あらゆる状況下で秘密裡に手早く決断され実行されなければならなかった
モンテクッコリは自ら「万物の理法」と呼んだ作戦的格言を推敲して定式化し、
これは後にフリードリヒ、クラウゼヴィッツ、モルトケによって採り上げられた
行動に入る前に「慎重にことの軽重を判断してから速やかに実行する」ことを提言していた
しかし、例えそうだとしても、彼は高度の予測可能性を試みたことを修正して、
前もって全ての要素を見積もることは不可能であり、いくつかの問題は「運を天に委ねなければならない」
とも述べている
「全てを懸念する指揮官は何も達成できないし、あまりにも何も心配しない指揮官は空頼みすることになる」
モンテクッコリが理想とする指揮官は、勇敢で健康で軍人らしい骨相を備え、特操が高く、分別があり、
勇猛で不屈の精神、精力、決断力を兼ね備えていなければならなかった


そんだけ


134 :財布の中の最後の銀貨:2005/11/22(火) 17:18:10 ID:???
モンテクッコリは戦略、作戦、戦術の明確な区別をしていなかった
彼はこれらを不可分な一体のものと見なしていた
戦争に対する彼の基本原則は、「最後に手つかずの兵力を多く温存していたほうが勝つ」ので、
常に予備戦力を保持することだった
彼はグスタフ・アドルフが編み出した戦闘編成を採用したが、攻勢防御によって敵を弱体化させた後に
主力を決定的な打撃にのみ用いることを提言し、また直ちに追撃することを主張した
「敗走した敵軍の残余を打ち果たし殲滅しなければならない」
彼は部隊の規模が一人の指揮官がうまく指揮できる範囲と支援可能な兵站組織の能力によって制限されることを
承知していた
当時、軍隊の規模は急速に膨張しており、ルイ14世は1672年にオランダに対して10万の兵力を展開した
モンテクッコリは独立的に行動する野戦軍の規模の上限を5万が適当であると推奨した
理想的な部隊の編組に関しては、主に歩騎兵の割合について考えが変化し、騎兵の比率が着実に上昇していった
彼はスウェーデン軍をモデルとしていたが、決勝点に対する騎兵突撃を好んだ
一方で銃の改良や軽連隊砲の増加、銃兵の比率の上昇により歩兵の潜在的な戦闘力は上昇していった
このような考えは決して独創的なものではなく、基本的には当時のヨーロッパの軍事思想を反映していた


そんだけ


135 :安楽椅子:2005/11/22(火) 17:19:00 ID:???
モンテクッコリは野戦指揮官及び軍事行政官として名を成したが、彼自身は自分の自由になる資源が
制限されていることを余りにも知り尽くしていたため、余りにも用心深く、慎重すぎた
しかし、彼の将帥としての能力はフォラール、モーリス・ド・サクス、フリードリヒによって十分に評価され、
ナポレオンは1673年の皇帝軍のキャンペーンを傑出した機動戦略だと見なした
ただし、軍事技術へのモンテクッコリの最も重要な貢献は軍事思想の領域にあった
彼の思想はしばしば教訓的な形で表現されているが、本来の彼は軍事の教育者ではなかった
彼は、指揮官とは「戦場で汗だくになり、または身も凍るような戦闘」の実践によってのみ培われると
考えていた
彼は敬虔なカトリックでありながら、不変の原則を実証的研究によって見出そうとした合理主義者だった
彼はこの原則を適切に適用するならば、戦争は予期し得る結果を伴う一つの社会的現象となるだろうと考えた
「私はこの簡潔な枠組みの中に君主にとって死活的に重要な唯一の科学の広大な領域を包含することを試みた
そして私はあらゆる科学が基づく基本的原則を見出すために最大限の努力を払った
世界史の全範囲を考察したが、これらの基本原則に適合していないと思われる著名な軍事的成功を
一つも見出せなかったと私は断言する」
更に彼の研究は、戦争術の純粋な機械的側面に限定されることなく、士気や心理、社会及び経済的な観点に
基づく考察もなされていた
モンテクッコリのアプローチは科学的であると同時に人文主義的で、その著述にはベテラン軍人の経験と
簡明なスタイルが持ち込まれている
戦争を科学的事業として定義して描写しようとした彼の試みが究極には無駄であるとしても、
彼の努力が重要な知的事業だったことはまず間違いない


そんだけ


136 :名無し三等兵:2005/11/22(火) 19:41:35 ID:???
へええ〜

137 :六芒:2005/11/22(火) 20:35:32 ID:???
ヨーロッパでは、マキャヴェリの時代からスペイン継承戦争の終わりまでほとんど絶えることのない戦争状態が
続いた
マキャヴェリを奮起させたフランスのイタリア侵攻は、ハプスブルク家に対するヴァロア家とブルボン家の
二世紀にわたる国際的対立の始まりに過ぎなかった
この時期の大半にわたって蔓延していた内乱は国家間の戦争と交差し、これらの戦争を休止させるどころか、
かえってしばしば合体して更に激しい紛争を引き起こした
17世紀末にこれらの内乱が一段落し、ヨーロッパ列強の国内的統合が最終的に固まった頃に、
古いスタイルの戦争がルイ14世のヨーロッパ覇業の一部として再開された
しかし、以前の戦争と異なる点もあった
かつてはスペインの支配を終わらせるためにフランスを援助してきたオランダとイギリスが
新たに台頭した商業国家としてフランスに敵対した
1713年のユトレヒト平和条約はイギリスに有利な講和条約だった
それはイギリスの海洋支配のための契機となったが、同時にヨーロッパ諸国が熱望したほどには
フランスを弱体化させなかった
フランスは実質的に最も重要な占領地を維持し、フランスの安全を保障していたウエストファリア条約を
ほとんど変更すらしなかった
特に、ヨーロッパ最強の陸上兵力であるフランス陸軍は削減されたとはいえなお手強く、
大陸の第一流の軍事国家としてのフランスの威信も実質的には衰えることなく維持されていた


そんだけ


138 :戦争のメカニズム:2005/11/22(火) 20:36:14 ID:???
二世紀にわたる軍事技術の進歩はその陸軍に見事に具現されていた
まず、軍隊の規模は著しい膨張を見せていた
リシュリューは1635年にフランス陸軍の定員を10万に増強したが、
これによって後期ヴァロア王朝の軍隊の兵力は約2倍に増加した
しかもこの兵力はルーヴォワがルイ14世のために徴集した軍隊のわずか4分の1に過ぎなかった
この軍隊の編制定員の増大は主に歩兵の重要性が増したからだった
これは、火力戦闘への依存という戦術的な傾向と、更により重要だったのは攻城戦の需要の増大にあった
永久築城構造物に対する攻囲として、またその防護として、歩兵は騎兵が真似できない機能を発揮した
17世紀のヨーロッパの軍隊は職業的な集団であり、成員の多くは外国人で、自由意思による応募によって
補充されていた
実際に利用されるよりも物笑いの的になるほうが多かった封建時代の遺物である「全臣出陣令」を
たまに使ったことと、ルイ14世治世後期に試行的に民兵が復活したことを除けば、
一般徴兵制に似た動員システムはフランスにはなかった
貴族は競って選り抜きの騎兵部隊に入ろうとしていたし、歩兵将校も貴族で占められていた
歩兵は社会の下層階層で占められていたのに対し、土地を所有する富農や有産市民は応募による兵役を忌避し、
復活した民兵制度からも免除されていたため、正規の軍務には就いていなかった
ただし、だからといって社会の中産階層がフランスの軍事力に寄与していなかったわけではなかった
フランスの中産階層は歩兵や騎兵としては勤務しなかったが、技術的奉仕、すなわち砲兵と工兵の部門や、
戦争における科学技術の応用において、また、軍隊の文民管理において多大の貢献をなした
この技術的・組織的分野の発展においてフランス陸軍はヨーロッパ列強の先頭に立っていた


そんだけ


139 :シビリアン:2005/11/22(火) 20:36:49 ID:???
ルイ14世が継承者に遺した軍隊はヴァロア王朝期の軍隊とは大きく異なっていた
組織と訓練、装備の改善は主にリシュリュー、ル・テリエ、ルーヴォワ、ヴォーバンらの一連の立案者によって
行われた文民管理の発展によるもので、彼らの仕事は17世紀全般に及んでいた
17世紀までは軍事は専ら軍人自身で管理され、中央の統制はほとんどなかった
歩兵中隊はそれぞれの大尉の下で事実上独立していたが、大佐に指揮された連隊に編合されてある程度は
調整されていた
各連隊長は歩兵司令官の指揮下にあった
しかし、この高級将校の威信や独立性は、新しく連隊に配された兵士に対する国王の統制力を強めるよりは
むしろ弱める方向に働いていた
16世紀における騎兵の場合と同様、国王の意志にはあまり従っていなかった
その威信と伝統によって、騎兵中隊は17世紀まで連隊に編合されることに抵抗していた
最古の騎兵部隊を象徴する近衛騎兵は、その指揮官さらに元帥によってのみ統制されていたが、
元帥は国王の意志とは別行動をとることも珍しくなかった
アンリ2世以来、軽騎兵は歩兵のように騎兵司令官の指揮下に置かれていた
砲兵だけは例外で主に有産市民で占められていたが、これはビューロー兄弟の時代に遡る伝統だった
砲兵の事実上の権限は中産階層出身の砲兵総監に握られていたが、ここでさえ名義上の長は砲兵団長で、
16世紀初期以降、砲兵団長は常に上流貴族が務めていた
従って、陸軍はその指揮系統において著しい欠陥を示していた
国王以外に中心的な権威は存在せず、そしてまた砲兵以外には重要な文民の官吏は誰もいなかった


そんだけ


140 :マネージャー:2005/11/22(火) 20:37:19 ID:???
リシュリューは、国王の権力を強化する最良の手段として中産階層の代表者たちを起用するという
彼の有名な政策を軍隊に及ぼすことによって、軍隊の文民管理の基礎を築いた
彼は多くの軍監察官を創設した
通常これは戦時中の特別な任務のために選ばれた各州の監察官で、各野戦軍に1名ずつ配置された
軍隊の給与、装備品の貯蔵その他の事項を監視する一群の経理官が監察官に対して責任を負っていた
最終的には陸軍大臣の要職が創設された
二人の大臣、ミシェル・ル・テリエとその息子のルーヴォワ侯の下で、このポストの権威と
これに関連する複雑な文民管理が増大した
大臣を中心に完全な公文書保管所を持ち真の行政部門化された官庁が成立した
1680年までに五つの局が創設され、各局は多数の補佐官を従えた局長に統括された
この局に対して各監察官や経理官、司令官さえも報告書を提出しなければならなかった
陸軍大臣の命令はこれらの局から発せられ、極めて重要な人々だけが大臣と直接接触することができた
従って、陸軍大臣だけが全ての重要な軍事の決定に関して国王の信頼すべき助言者となった


そんだけ


141 :おーがにっく:2005/11/22(火) 20:37:53 ID:???
現代の、またはナポレオン時代の軍事組織の標準から見ても、ルイ14世時代のフランス陸軍は
決して均整のとれた組織ではなかった
組織や管理上の変則、募兵や将校登用にまつわる不正等、あらゆる種類の甚だしい欠陥が存在していた
しかしこの軍隊は、兵士を募集した大尉や大佐以外の統治者を知らないような
各部隊単位で分離した無統制な集団ではなくなっていた
明確な権限を有する明確な階級制度を持ち、処罰を受けることなく国王の軍事統帥権から逃れ、
反抗的な指揮官たちが王権に逆らうことができなくなったのは、文民管理の骨の折れる仕事のおかげだった
王室の多くの独立的で高位の公職が廃止され、将校の階級制度が再編成されて権限が明確化され、
職能の曖昧さや元帥と中将たちの絶えざる対立が解消されていった
年功序列の原則も導入された
指揮の統一は一時的で例外的な「陸軍元帥」のポストを設定することによって可能となり、
1660年に初めてテュレンヌがその地位についた
この創設期に数多くの小さな改革が遂行された
軍隊内の官職の重複は厳重に規制されたが、買官制度は根絶には至らなかった
制服や規律が導入され、募集方法、軍隊への住居の提供と給与についても改革が行われた
この軍事機構の組織化秩序化の努力は、他の領域で起こっていたことを反映したものだった
フランスの政治経済の全体にわたって、長い慣習によって是認されていた伝統的権利と混乱が
中央集権強化のために攻撃に晒されていた
この理性と秩序への崇拝は、単に権力者の便宜主義でもなければ、当時流行していた新古典主義が
押しつけた理想論でもなかった
リシュリューやルイ14世の時代の改革者たちは、時代の精神である科学的合理主義の影響によって
陸軍と文民官僚組織を整頓し、国家と軍隊に対してある種の巧妙な機械的な性格を与えようと努力した
しかし科学はより直接的に軍事に影響を及ぼしつつあった


そんだけ


142 :技術戦:2005/11/22(火) 20:38:18 ID:???
科学と戦争は常に結合されてきた
中世初期のヨーロッパの科学者たちのほとんどは軍人ではなかったが、彼らの多くが後に軍の技術顧問になり、
または技術的な助言者として軍務に服した
多数の軍医が医学や解剖学の科学者としての地位を占めた
軍事技術者としての科学者は更に多く、築城技術や火器、その他様々な機械の使用に関する技能を組み合わせて
軍事的な技術体系を構築し、軍事技術の進歩と理論化学に貢献した
レオナルド・ダ・ヴィンチはこれらの多才な軍事技術者の恐らく最も有名な一人だが、
最初の一人でも最後の一人でもなかった
16世紀の全期間と17世紀の大半を通じて陸軍の技術部門が実際に編成される以前には、
イタリア、フランス、イギリスの多くの科学者たちが戦争の技術面に関する諸問題に注目していた
17世紀に入るまでには、部外の専門家の仕事を将校自身に技術訓練を施して補わなければならないことが
一般に理解されていた
アンリ4世やリシュリューの初期の計画のような体系的な軍事教育の企画は全て失敗に終わったが、
そうした計画では基礎的な科学教育にある程度の考慮が払われていた
ガリレオは記録の中で、将来の将校を対象とした数学と物理学のある程度本格的な教育計画の概要について
記している
組織的な軍事教育は、技術教育は言うまでもなく18世紀を待たねばならなかった
しかし、ヴォーバンの時代には将校のほとんどが生齧り程度の技術的知識を身につけていたか、
または自分がこうした知識を持っていないことを後悔していた


そんだけ


143 :点と線:2005/11/22(火) 20:41:57 ID:???
イタリア戦争において、フランス軍砲兵は初めて有効に攻城砲を使用してイタリア諸都市の
高い城壁を備えた中世的要塞を破壊していった
これに対してイタリア人は新しい設計の要塞を構築し、この要塞は後に改良を施されながら
19世紀初めまでヨーロッパで普及した
このイタリア式築城術は相当の数学と建築学の知識を必要とする一つの学術となった
何人かの第一級の科学者たちはこの新しい応用科学のエキスパートになった
現代では数学と機械工学の貢献者として知られているイタリアの数学者ニッコロ・タルターリャと
オランダの大科学者シモン・ステヴァンは、当時は築城技術者として有名だった
ガリレオはパドアで築城学を教えていた
イタリア人技術者の技能を高く認めていたフランスのフランソワ1世は彼らの多くを軍に採用し、
カール5世の脅威に対抗して北部と東部の国境地帯の防備を固めるための要塞構築に彼らを従事させた
この築城工事はアンリ2世の治世を通じて続けられたが、一連の内乱のために中断されている
アンリ4世とシュリによって工事が再開された頃にはオランダ人がイタリア人とこの分野のシェアを争っており、
一方でフランスでもエラール・ド・バール・ル・デュクのように自前の技術者が育ちつつあった


そんだけ


144 :ディレッタント:2005/11/22(火) 20:42:27 ID:???
エラールがフランス近世築城術の祖とされているのは、彼が1594年に「複郭築城術」を著したからで、
17世紀に入ると多くの有能な技術者が出現し、彼らの中には軍人も民間の科学者もいた
後者の中には大数学者ジュラール・デザルグがいたし、その他にも多才な科学者で知られるピエール・プチや
天文学者で物理学者のジャン・リシェールが挙げられる
ブレーズ・ド・パガンは理論家で技術者ではなかったし、いずれの築城工事も実際に指導したことはなかった
科学において彼は実際にはただの好事家だったが、彼自身はそれ以上の才能を持っていると夢想していた
それと同様に工学の分野でも彼の業績は専ら書斎の安楽椅子から生み出された
それでも彼は17世紀後半にフランス人が建築した要塞の設計に幾つかの重要な改良を加えることに成功した
ヴォーバンの「第一方式」は、僅かな修正と地形に適合させる融通性を除いて実質的にはパガンの踏襲に
他ならなかった
パガンの主要な考察は攻防両面における火力発揮の最大限の追求を基礎としており、「パガン伯爵の築城論」に
具体的に述べられている
パガンは稜堡こそが要塞の中で最も重要な施設であると主張していた
その位置と形状は、彼が定型化した簡単な幾何学的法則によって要塞の内部よりも外部を重視して決定された


そんだけ


145 :パウダー:2005/11/22(火) 20:43:09 ID:???
火砲の進歩においても科学技術と軍事的要求の相互作用が見られた
ビリングッチオの「火工術」は、長い間砲火薬の調合と大砲の冶金術の権威ある手引書とされた
砲外弾道学の理論が近代力学の創始者であるニッコロ・タルターリャとガリレオによって始められた
極言すれば、近代物理学の基礎は基本的な弾道上の問題解決の副産物でしかなかった
タルターリャは発射角度と射程の関係に関する実験によってアリストテレスの力学を批判したが、
恐らくこれが最初の力学実験だった
その結果、最大射程の角度は45度であるという発見が実証され、砲兵用の角度器や象限儀が普及し、
広く使用されるようになった
ガリレオは、空気抵抗のような阻害要因を無視できる理想的な場合には弾道は放物線を描くという基礎理論を
発見したが、これは彼の三つの主要な力学的発見、慣性の法則、自由落下体の法則、速度の構成の原則によって
初めて可能になった
彼の弾道学研究の各段階で生み出された一連の発見に基づいて後世の古典物理学体系が確立した


そんだけ


146 :地図は嘘をつく:2005/11/22(火) 20:43:43 ID:???
17世紀の終わりまでに新しい学問の進歩は技術的軍事教育の最初の実験が実を結び、
イギリスやフランスでは科学研究の援助を与えるまでに推進された
イギリスでは1662年にロンドン王立協会がチャールズ2世から設立特許状を授与され、
1666年にはフランスでコルベールの推奨によって王立科学アカデミーが設立された
これらの組織はいずれも「有用な知識」に寄与するために設立されたもので、
陸海軍にとって直接的または潜在的に価値のある多くの研究が企画された
弾道学の研究、弾丸の衝撃現象と砲反動に関する研究、火薬の改良と硝石の特性の研究、
海上における緯度測定のための手段の追求やその他多くの研究課題に両アカデミーの会員は没頭した
両国の勤勉な会員の中には陸海軍の軍人も多く見られた
フランスでは、科学者たちはしばしば軍事に関する技術上の問題について助言を求められた
科学アカデミーの科学者たちは、コルベールの監督の下で海軍拡張計画に必要とされる沿岸部の測量を行った
彼らはこの作業を通じて近代的な科学的地図作成法の基礎を作り上げることになり、
次の世紀にはフランスのカシニー地図が完成し、フランス陸軍は初めて国土防衛のための正確な地勢図を
手にすることになった


そんだけ


147 :バイオレンスのルール:2005/11/22(火) 20:44:14 ID:???
16世紀から17世紀にかけて刊行された軍事文献の特徴は、端的に言えば「質より量」だった
古代の著作は当時においてもまだ軍事理論や軍事的才能の秘訣に関する偉大な参考書だった
ヴェゲティウスやフロンティヌスは必読の書と見なされていた
当時ベストセラーになったアンリ・ド・ロアンの「完全な指揮官」は「ガリア戦記」を改作したものだった
当時の戦争に関する著作は、国際法に関するものと軍事技術に関するものの二つに明確に区分できた
マキャヴェリは戦争に規制のない時代の理論家だったが、17世紀に入ると彼の影響は衰えていった
フランシス・ベーコンは恐らくマキャヴェリの最後の有名な弟子で、今日に至るまで
その「随想録」に見られるような臆面のない無制限戦争の唱道者は存在しない
無制限戦争に対する反動は既にベーコンの時代の前から始まっていた
グロティウスに代表される人々が、国際的無政府状態と無制限破壊の戦争に対する反対の先頭に立った
これら国際法の創始者たちは、自然法の中に国際法の原則があると表明していた
彼らの最も基本的な原則は、各国は平和時においては相互に最善を尽くすよう努力し、
戦時には悪を最小限に止めるよう努力しなければならないというものだった
この高邁な理論が実際の戦争の現実に及ぼした影響を軽視することは簡単だが、
それでも実際には国際法の原則は17世紀末までに戦争の様式に否定できない影響を及ぼしていた
国際法は政治的没道徳性に終止符を打つことはできなかったが、
少なくとも戦時行為を多くの細かい禁止事項によって枠の中に閉じ込めようとした
これらの規則は戦闘に従事する指揮官たちによく知られ、一般に守るための努力が払われていた
捕虜の取扱と交換に関する通達、毒物使用のようなある種の破壊手段の非難、非戦闘員の取扱、
戦時の会見、休戦交渉、安全通行権等の手筈を決めた規則、占領地域における略奪や強制徴発及び
攻囲の終結手順に関する規則等が挙げられている
全体の傾向は、戦時における個人の生命と権利を保護し、被害をできるだけ局限することにあった


そんだけ


148 :土工の権:2005/11/22(火) 20:44:43 ID:???
軍事技術に関する著作の中で、ルイ14世治世下の軍事技術者セバスチャン・ル・プレストル・ヴォーバンの
著書ほど大きな影響を与え、名声を博した本はなかった
18世紀における彼の権威は絶大で、ナポレオンに時代に至ってもその名声は衰えなかった
ヴォーバンが遺した文献は僅かで、高度に専門化されており、ほとんどが攻城技術に関する論考、
要塞防御の手引書、地雷に関する短い覚書のみで、築城については何も出版していないし、
戦略または戦争一般についても体系的な業績はなかったが、これら全ての部門において彼の影響は否定できない
ただし、その影響は彼の経歴と彼の手がけた要塞の実例を通じて間接的に及ぼされたものであり、
更には彼の弟子たちの尽力とその著作によるものだった
ヴォーバンの著述は、18世紀の戦争で最も重要ではないにしても非常に重要とされた側面についての
権威ある教科書だった
17世紀後半から18世紀を通じて、戦争は果てしない攻城戦の連続以外の何物でもなかった
戦争の焦点は常に攻城戦となった
例え敵の要塞の奪取が主目的でなくても、敵の領土に侵入するためには要塞を包囲することが避けられなかった
攻城戦は野戦よりもはるかに数多く行われ、野戦を回避するのと同じくらい簡単に攻城戦が行われた
野戦は、包囲されている要塞を救援する必要が生じた場合、または救援軍を撃退する場合にのみ
起こり得るものだった
少数の例外を除いて全ての指揮官の戦略的創意は一般に受け入れられていた攻城戦の原則で制約された
このように攻城戦を戦略的に優先するドクトリンが無条件に認められていた時代に、
ヴォーバンの論考は必要不可欠なものと見なされ、彼の名は必然的に影響力を持つに至った


そんだけ


149 :草莽:2005/11/22(火) 20:45:25 ID:???
もっとも、ヴォーバンの技術的著述が彼の栄光と声望に果たした役割はごく一部に過ぎなかった
彼の個人的な性格、国家の見識ある公僕としての長い経歴、専門以外の軍事技術の進歩に対する数々の貢献、
公共の福祉への人道主義的な関心等は人々の想像力に大いに訴えるものがあった
彼は名門の出ではなかったが、その勤勉と正直、勇気と国家への忠誠から、古代共和制ローマの従僕の化身の
ようだと言われた
ファントネルは彼への讃辞の中で、「最盛期のローマ共和国からルイ14世の時代に忍び込んできたローマ人」
と評し、ヴォルテールは彼を「最良の市民」と呼んだ
彼に「ローマ人」という渾名をつけただけでは満足しなかったサン・シモンは、彼を「愛国者」と形容した
要するに、尊敬すべき公僕、組織の天才、啓蒙的改革者というヴォーバンのキャラクターは、
無数の無名の人々の努力を通じて新しい国民国家を形成していく上で必要な特質の具現であると
見なされたのだった
更に、彼の技術的知識、応用数学の才能、正確さと秩序を重視する性向、科学アカデミー会員であったことは、
国家の福祉にとって科学的知識の持つ新しい重要性を象徴するのに相応しいものだった
デカルト派の合理主義や平戦両時の社会における応用科学の役割、この時代の幾何学的精神、
これら全てが彼の設計した重厚な要塞の輪郭のようにこの人物の中に具体化されていた


そんだけ


150 :名無し三等兵:2005/11/22(火) 21:03:52 ID:???
波状攻撃、支援

151 :馬車馬:2005/11/22(火) 21:12:16 ID:???
ヴォーバンの生涯は余りに長く活動的だった
ルイ14世に仕えた大臣や将軍の中で、彼ほど長く活動的な経歴を持つ者はほとんどいなかった
彼は二十代前半にマザランの下で国王の軍隊に入り、73歳で没する僅か数ヶ月前まで戦場にいた
その半世紀に彼は50近い攻城戦を指揮し、100をはるかに越える要塞と港湾施設を設計した
彼は有産市民と下級貴族の中間の曖昧な階層の出身で、先祖はモルヴァンのバゾージュに住む富裕な公証人で、
16世紀中頃に近隣に小さな地所を得ていた
彼は1633年にサン・レジュに生まれ、近くのスミューラン・オーソワで歴史、数学、製図について
中途半端な教育を受けた
1651年、彼はコンデ公の軍隊に士官候補生として入隊したが、あろうことかその時コンデ公は国王に
反乱を起こしていた
後に王によるコンデ公の赦免に与り、1653年に国王の陸軍に入った
彼は軍事技術者のシュヴァリエ・ド・クレルヴィルの下で勤務についた
2年後にヴォーバンは王室侍従技術官への名誉昇進を獲得し、
間もなくマレルシャル・ド・ラ・フェルテ連隊の歩兵中隊の名誉大尉の地位を得た
1659年のスペインとの休戦と1667年のルイ14世最初の征服戦争が始まるまでの合間に、
ヴォーバンはクレルヴィルの命令で要塞の補修作業に従事した
1667年、ルイ14世は低地帯諸国への攻撃を開始した
この短期間で終わった遺産継承戦争で、ヴォーバンは攻城技術の名手として注目された
ルーヴォワはヴォーバンの才能を認め、彼を陸軍省全ての技術的業務を司る総監とし、
事実上の指揮監督官に登用した
遺産継承戦争で獲得した地域において、ヴォーバンは大掛かりな築城計画に着手した
フランスはエノーやフランドル地方の重要な都市、大拡張の前哨拠点となるベルク、フルネ、ツルネーと
リールを手に入れ、これらの都市とその他の重要拠点がヴォーバンの第一方式で要塞化された


そんだけ


152 :パターン:2005/11/22(火) 21:12:46 ID:???
以来、平時においては不断の監督、補修工事、新しい築城、戦時には攻城戦の指揮、
そして再び次の戦争までの合間の平和な時期にはそれ以上の熱心な要塞構築が、
ルイ14世に仕えたヴォーバンの生涯の絶えざるリズムとなった
この任務の遂行のためにヴォーバンはフランスの隅から隅まで馬に乗って移動し、
晩年には馬や人が担ぐ駕籠に乗って、死ぬ年まで終始移動する生活を続けた
余暇はほとんどなかったと思われ、1675年に得た田園にもほとんど滞在することはなかった
彼は宮廷との関係を周到に避け、パリやヴェルサイユに滞在する時間も出来るだけ短くした
彼は生涯の大半を文化や刺激の多い中心地から遠く離れた国境の村の宿で過ごし、
そこで数え切れない量の仕事に従事した
彼は技術作業の合間に僅かに自由な時間を見出しては公式な書状や個人的な執筆に専念した
彼は絶えずルーヴォワと連絡していたが、ルーヴォワ宛の手紙や報告書は乱発に近く、
乱暴な散文体で書かれていた
これでも十分満足しなかったかのように、彼は専門分野とほとんど無関係な数多くの異なる軍事・非軍事の
諸問題について関心を示し、それらの問題の幾つかを書状の中で論議する一方、
その他の問題についても「余暇」と題する原稿十二巻に及ぶ長い覚書の中で扱っている
これらの覚書の中でヴォーバンは多様な問題を論じている
陸海軍の諸問題は言うに及ばず、内陸水路やラングドッグ運河についての報告、再植林計画の必要性、
アメリカのフランス植民地の状態を改善する施策、ナント勅令廃止の弊害、
伝統的な貴族にかわって功績に基づく新しい貴族階級の創設の利益等について論じられている
この「余暇」はその発端を明らかにしているが、「余暇」とは名ばかりで、内容を表したものではなかった
これらはフランス中を移動している間に集められた記録や観察に過ぎないものもあり、
中には長い論文も見られるが、それらの根底には人道主義的な関心と科学的精神が貫かれていた


そんだけ


153 :正論でも喧しいと嫌われる:2005/11/22(火) 21:13:13 ID:???
ヴォーバンの功績は応用科学と簡単な応用数学にあった
彼は後のフランスの軍事技術者ラザール・カルノーのような著名な数学者でも物理学者でもなかったし、
クーロンがなしたように機械工学に大きな理論的貢献をしたわけでもなかった
クグノーの蒸気戦車のような発明もなかった
要塞の設計はさておき、ほとんど純粋科学上の業績はなかった
工学に関する彼の唯一の貢献は擁壁の適正な均衡に関する経験的研究のみだった
ヴォーバンの主な科学的独創性は、同時代のイギリス人を除いて誰も本気で試みようとしなかった分野に
定量的手法の範囲を拡大しようとしたことだった
実際に彼は体系的気象学を創始した一人で、統計学の草分けの一人だった
彼が統計を利用する習慣は多くの軍事報告と技術報告に見られ、それはフランスの各地域の軍事的事項とは
直接的には無関係に見える財力、人口、資源に関する詳細な数字の羅列で満たされていた
彼はまた部下に対して骨の折れる調査を行わせて困惑させることもあった
ダンケルクからイーブルに至る北西部国境地帯の要塞監督官であったユー・ド・カリーニに送った手紙の中で、
その地方に関する報告が不完全であることに不満を示し、水路の詳細な位置と伐採時期ごとに区分された木材の
分布状況を記入した地図と、更に年齢、職業、階層について具体的かつ詳細に分類した人口統計資料の提出を
命じている
加えてカリーニはその地方における経済生活に関して集められる全ての情報を報告しなければならなかった
ヴォーバンは、軍事技術者としての彼の仕事の副産物であるこの種の情報資料によって、
軍事問題に集中したのと同様の批判的評価の精神、論理・秩序・効率を重視する精神を非軍事的問題にも
及ぼそうとしていた


そんだけ


154 :正論だから嫌われる:2005/11/22(火) 21:15:43 ID:???
ヴォーバンはこの世紀の軍事改革者の中でも最も根気強い人物の一人だった
彼の書簡と「余暇」は様々な提案で満たされている
軍事組織と軍事技術に関する差し迫った問題で、ヴォーバンが提案または全般的な再編計画を
提示しなかったものはほとんどなかった
彼は部下の技術者を独自の将校団と他兵科とは別の制服を着用した常備軍の独立兵科とすべく努力したが、
生涯ほとんど実現せずに終り、それが実を結ぶのは次の世紀になってからだった
彼はまたルイ14世治世末期に創設された砲兵学校を大いに賞賛し、技術者のための同様の学校の創設を
提案した
結局これは成功しなかったが、勅許名誉昇進の候補者をテストするために正式の試験体系を設定し、
また候補者が専門の教官によって適切に教育されるように様々な措置を講じた
彼は攻城戦の専門家として砲の改良にも強い関心を示していた
この分野における彼の研究と新機軸は無数にあった
彼は重砲を輸送するために橇で実験を行い、当時の陸軍砲の主流だった青銅製の砲身を、
海軍に倣ってより軽量な鉄製砲身に変更するよう主張していた
彼は新しい射石臼砲について多くの実験を重ねたが、これは不満足な結果に終わっている
彼は歩兵のフリントロック銃装備の熱心な主張者の一人でもあったし、最初の実用的な銃剣の発明者でもあった
1669年のルーヴォワへの手紙で、彼はフリントロック銃の標準装備と槍の廃止を強く訴え、
その直後には、着剣したまま射撃できるように銃身の側面に銃剣を装着する鞘またはソケットを備えた銃剣を
槍のかわりに装備するよう提案している


そんだけ


155 :口を挟まずにいられない:2005/11/22(火) 21:16:07 ID:???
ヴォーバンは兵士の生活環境や福祉についても装備の向上と同様に熱心だった
兵士の募集と給与の改善に努力し、エ・ラ・シャペル平和条約の後、陸軍に兵営制度が導入され、
市民の住居に兵士を宿泊させる習慣が制限されるようになったのは、ある程度までは彼の働きによるものだった
多くがヴォーバンによって設計され建設された特設兵舎が主に国境地帯や新しい占領地域に建設された
ヴォーバンは海軍施設については体系的な研究をしておらず、彼の海軍に関する知識は
主にこの分野に熟達していたクレルヴィルから学んだものだった
この分野での彼の最初の仕事はツーロンの港湾施設の改良工事で、ダンケルク港は彼の傑作となった
彼は海軍におけるガレー船の役割について研究し、ガレー船の運用を地中海から大西洋へと拡大しようと考えた
さらにガレー船を巡視船とし、また海岸に接近する大型船の機動掩護幕として、
あるいはオークニー諸島やイギリス本土に対する急襲に用いようとしていた
この提案はいささか的外れだったが、こうした研究と密接に関連していたのが「通商破壊戦」構想で、
彼は通商破壊こそがコルベールが苦労して作り上げたフランスの海軍力が崩壊した後の唯一実行可能な戦略だと
考えていた


そんだけ


156 :マニュアル:2005/11/22(火) 21:16:51 ID:???
ヴォーバンが軍事技術に対して最も重要な貢献をしたのは当然ながら彼自身の専門、すなわち攻城技術と
築城技術にあった
彼は要塞の攻囲を秩序化し、これによって攻城作戦は具体的な計画性を持つようになった
攻城戦が戦争において大きな比率を占めていた当時、個々の攻城作戦に必要な兵力、時間、弾薬や
攻城資材その他の兵站所要の詳細な見積は、戦争計画の立案に大きく寄与した
ヴォーバンの創案ではなかったが、彼は平行壕の体系を完成した
ヴォーバンの攻囲要領はほとんど変化せずに18世紀中も踏襲され、高度に形式化されていた
攻撃軍はまず兵員と攻城資材を要塞の防御火力の射程外で自然や人工の遮蔽物で掩蔽された地点に集積した
続いてこの集積所から工兵が交通壕を掘りながら徐々に要塞に向かって前進し、
ある程度の距離を進むと攻撃予定の防御陣地に平行する深い第一平行壕が交通壕とほぼ直角に掘開された
ここに攻撃準備射撃のための攻城砲の最初の射撃掩体と部隊の集結地が設定され、兵員と資材が推進された
交通壕は更に前進しつつ第二平行壕、第三平行壕が構築された
工兵は第三平行壕から更に前方に壕を掘り進め、突撃部隊が第三平行壕に入る時期にタイミングをあわせて
要塞の斜堤基部の近くまで達した
要塞の突撃破砕射撃に晒されて斜堤を登る任務は騎兵式胸壁からの掩護下で行われた
敵の陣地を占領したならば、攻城砲が推進され、その砲撃によって敵の主防御線に突破口が形成された
ヴォーバンの攻城技術体系の基本的な特徴は、攻撃築城を多用して攻撃部隊を防護することだった
彼の平行壕は1673年のマーストリヒトの攻囲で初めて実戦に供され、
騎兵式胸壁は1684年のルクセンブルクで用いられた
完成された彼の攻城法は、1705年に彼がブルゴーニュ公のために書いた「功囲論」に詳細に記述されている


そんだけ


157 ::2005/11/22(火) 21:17:21 ID:???
ヴォーバンの築城法も決して独創的なものではなかった
ヴォーバンの設計した要塞は三つの方式に区分できる
しかし、彼自身は明確に定められた三つの方式を使い分けていたわけではなく、
時期によって明らかに異なった方式へとスタイルを変更しており、それは主に稜堡の設計の修正にあった
ヴォーバンが要塞の大部分に採用した第一方式では、パガンの設計が僅かな修正を加えただけで流用されていた
この方式での堡塁の輪郭は可能なときは常に正多角形をとり、四角形や八角形、時にはラ・ケノクのように
大まかな三角形のものさえあった
稜堡はヴォーバンの先達のものより小さくなる傾向にあったが、依然として防御の鍵だった
また細部を改良し主防御陣地の外郭に設けられた防御施設で凹堡や半月堡等の外堡を多用したこと以外は、
パガンの時代以来ほとんど変化していない
従って、ヴォーバンの要塞の大半はこの旧来の設計によって構築されたものであった
彼の独創性は他の二つの方式に確認することができるが、それらはヴォーバンの後継者たちには
ほとんど影響を与えなかったし、彼の仕事のほんの僅かな実例の中で具体化されたものに過ぎない
第二方式はベルフォールとブザンソンで初めて用いられ、それ以前の方式を発展させたものだった
多角形の構造は踏襲されたが中堤が延長され、稜堡自体も突角部で小型の堡塁か塔に替えられ、
これらは主稜堡から分離して壕の中に構築された外堡や分派堡によって掩護されていた
第三方式は第二方式の変形で、ヌー・ブリサッシュのみに用いられた
この設計では要塞砲の射撃掩体の地積を確保するために中堤の形状が修正され、塔、外堡、半月堡が
大型化している


そんだけ


158 :アタックバッテリー:2005/11/22(火) 21:20:01 ID:???
ヴォーバンの築城設計における最大の特徴は第二方式にあった
従来の要塞の陣地編成は、主防御区画から突き出され、相互に支援された王冠堡や突角堡で構成された陣地線で
防護される一線防御を基本としていた
ヴォーバンは、第二方式で外堡や分派堡により複数の防御線を縦深に準備し、
最初の陣地線が奪取されても主防御区画が直接脅威に晒されない縦深防御のスタイルを採用し、
防御戦闘における組織的戦闘力の靱強性を確保しようとした
地形的縦深を必要とする第二方式は、必然的に防御正面幅の拡大とそれに伴う戦力分散を招くことから、
コルモンテーニュや後には軍事技術学校であるメズィエール校のスタッフによって斥けられた
彼らの要塞設計は専らヴォーバンの第一方式を基礎としており、第二方式は中世的な粗末な方式に過ぎないと
見なされていた
しかし、18世紀末にはモンタランベールの改革により第二方式の設計思想は復活している
それはドイツ人がフランス人よりもずっと以前に受け入れていた考えだったが、
攻城砲の長射程化により遠くから主防御区画を直接砲撃されないよう、外堡のかわりに分離した小堡塁を
備えて縦深を確保したことに主要な特徴があった
モンタランベールの発想が果たしてヴォーバンの第二方式に示唆を受けたかどうかは疑わしいが、
それは第二方式の中に既に含まれていた構想だった


そんだけ


159 :職人気質:2005/11/22(火) 21:20:25 ID:???
ヴォーバンが要塞設計に関する論文を一つも書かず、しかも攻城戦術について体系的な説明をしなかったことは、
ヴォーバンの築城思想に関する後世の研究に混乱を招いた
僅かに残る手記や原稿から導き出される彼の築城の原則は、特別でも目新しくもないごく一般的なものだった
要塞のどの部分も堅固な稜堡で側面を防護されていること
これらの稜堡は守備隊が展開できる地積が確保できるようできるだけ大きくすること
これらの稜堡は互いに銃の射程以上に離れていないこと
この三つの基本原則はヴォーバンの設計した要塞の全てに適用されている
永久築城の構築上の実際的問題はこの基本原則を破らないよう稜堡の設計をいかに地形に適合させるかにあった
第二方式が考案されたのもこの築城方法によるもので、このことはヴォーバン自身が語るように、
理論的な考察の結果ではなく、ベルフォールの地形によってそうすることを余儀なくされたからだった


そんだけ


160 :技術者の生涯:2005/11/22(火) 21:22:07 ID:???
ヴォーバンに関する後世の評価は二つに分かれている
初期の伝記作家たちは、彼らが描く英雄を偉大に見せようとする独特の性急さから、
ヴォーバン以前のフランスには見るべき要塞の体系はなく、彼の生涯に構築された王国を取り囲む要塞の環は
この偉大な技術者の頭脳から生み出されたという明確な印象を人々に与えた
これらの作家たちにとって、ヴォーバン以外の誰かが要塞防衛網の組織化に関与した可能性があることも、
この築城技術が歴史的発展の必然の結果であったかもしれないことも信じ難いことだった
一方最近では、ヴォーバンの築城家としての能力は評価するが、
所詮は戦略的思考に欠けた有能な技術屋に過ぎないとする傾向が強い
ヴォーバンは、歴史的必然から、または戦略的思考の全てを一人で取り仕切る権力者の命令で、
与えられた任務を盲目的に実行した単なる優れた技術者として描かれている
実際に、ヴォーバンの専門分野である築城技術において、彼の権威に挑戦し得た唯一の人間こそが
国王ルイ14世だった
ルイ14世は青年時代に築城技術を学び、その治世の初期にテュレンヌ、ヴォルロア、コンデ等の助言と
教育によって、築城に関して相当に熟達していたと伝えられている
王は生涯を通じて築城技術に関して不断の関心を示し、しばしばヴォーバンの勧告に異を唱えた
フォール・ルイとモン・ロワイヤルの要塞は王の発案によって構築され、
しかもヴォーバンの助言とは正反対の手法で設計されている


そんだけ


161 :理屈じゃない:2005/11/22(火) 21:22:32 ID:???
勤勉なルイ14世は、何事においても、築城のこうした技術的事項においてすら絶対だった
ルーヴォワさえ、「書記ではなく優れた下僕」と評され、ヴォーバンは「王の命令の優れた実行者」に過ぎず、
「大事業の職工長であるが、その指揮については十分に任されてはいなかった」と記されている
この解釈は事実で、ヴォーバンは既に決定された要塞に関するあらゆる計画を立案したり、修正を加えたり、
技術的な資料や提案を提出したりしたが、決定が討議されている場では彼の出席は必要とされていなかった
彼は政策決定者ではなく単なる顧問の一人に過ぎなかった
王の政策決定に及ぼしたヴォーバンの影響は無視できなかったが、ヴォーバンの貴重な進言の多くが却下され、
彼の計画の多くが政治上の現実的な理由から破棄された
ヴォーバンはルクセンブルグをヨーロッパで最も強力な要塞地域の一つと考え、
フランス防衛に不可欠だと主張していた
しかし、ルイ14世の征服事業における最初の撤退となった1697年のライスワイク平和条約で、
フランスはルクセンブルグだけでなくブリザッハ、フリブール、ナンシーまで放棄した
この条約締結に直接意見を求められなかったヴォーバンが懸念したほどには状況は悪くはならなかったが、
彼はフランスの損失を埋め合わせるために余計な仕事を背負い込むことになった


そんだけ


162 :金の縁:2005/11/22(火) 21:23:09 ID:???
ヴォーバンが戦略的な構想を持っていたかどうかは定かではない
少なくとも、ルイ14世とヴォーバンは全く白紙の状態から事を始めたわけではなかったし、
彼らが先人の要塞を考慮せずに純理論的な防衛計画など実行できるはずもなかった
ルイ14世治世のフランスの国境は、フランソワ1世の時代から、シュリ、リシュリュー、マザランに
至る長く支持されてきた国策の具現であり、要塞都市の配置は国境の刻々と変化する外郭線に
フランスの防衛組織を適合させようとする永い努力の結果として生じたものだった
フランス国境の要塞組織は一人の人間の仕事ではなく、歴史的発展の結果によるものであった
ヴォーバンが何らかの形で関与した要塞の大多数は、彼が設計し構築した新型要塞ではなく、
エラールやイタリアの先達まで遡る古い時代の要塞であり、彼はこれらの要塞を補修し、改修し、
強化したのだった
これらの要塞は、中には相互に連携して一連の緩やかな地域防衛網として機能していたものもあったが、
一般にほとんど連絡もなく、分離し独立した単位としての価値のほうがより重要だった
要塞の位置は、橋や道路の交差点、河川の合流点を守るため、地形の重要性によって選定されていた
要塞の価値は、相互関係の位置よりも数によるものだった
ヴォーバンの全般的な築城計画は、これらの多くの要塞の中から取捨選択する過程で生じた
ヴォーバンは混沌と存在していた要塞の中から維持強化する価値のあるものを選択し、
その他を破壊することで防衛組織を整理し秩序をもたらそうとした
しかし、彼は自分のこうした戦略的見解を自由に実行することはできなかった
もっとも、ヴォーバンの成し遂げた秩序は戦略構想と呼ぶには程遠いものだった
彼は、主に国家の経済的理由から、フランスが既に保有していた要塞の範囲内で仕事をしなければならなかった


そんだけ


163 :フォワード:2005/11/22(火) 21:23:36 ID:???
遺産継承戦争の結果、北西部国境に沿ってフランスはスペイン領フランドルにその領土を拡張した
この新しい領土は沿岸部のフルネからベルグとクートレを経てシャルルロワに至る多くの拠点を
フランスにもたらした
ヴォーバンの最初の大仕事は、新しく獲得した地域を強化し、要塞で固めることだった
彼は1668年から1672年までの平和な期間の大半をこの仕事に没頭したが、
1672年春にルイ14世がオランダとの戦争を始めた時、初めて国境地帯の全般的な防衛組織について
意見を述べる機会を得た
彼は1673年1月20日付でルーヴォワに送った手紙の中で、
「我が国王はその領土の前衛方陣を設定することについて真剣に考慮すべきである
彼我の要塞が相互に混在する現状は私にとって非常に困ったものである
要塞が一基あればよいところに三基維持しなければならない」と述べている
1675年、彼はフランシュ・コンテその他の地域の占領地を固める作業に奔走していたが、
更に具体的な進言を行っている
9月に彼はコンデ、ブーシェン、ヴァランシェンヌ、カンブレの攻撃を進言した
彼は、これらの要点の奪取と確保がルイ14世の征服の成果を確実にし、非常に望ましい「前衛方陣」を
形成できるだろうと主張した
彼の進言通り1676年にコンデ、ブーシェン、1677年にヴァランシェンヌ、カンブレの諸都市が占領され、
1678年8月に調印されたナイメーヘン平和条約によって、フランスは「前衛方陣」にほぼ近い国境を
確立した
またフランスはフランドルの領土の一部を放棄するかわりに、サン・オーメル、カッセル、エール、イーブルと
6基の重要な要塞を獲得した
東ではロレーヌ地方のナンシーとライン河遠岸のフリブールを得た
しかしヴォーバンは国境の西端に満足せず、この平和はフランス国境を破壊し、低地帯方面を
無防備にしてしまったと感じていた


そんだけ


164 :キーポイント:2005/11/22(火) 21:25:34 ID:???
ナイメーヘン条約締結の3ヶ月後の1678年11月、ヴォーバンは英仏海峡からミューズ河に至る北部国境の
防衛組織について一連の重要な所論の最初のものを書いた
ヴォーバンは要塞化された国境の目的について述べることから始めている
要塞化された国境を整備することは王国への侵入経路にあたる全ての道路を封鎖し、同時に敵国への攻勢を
容易にすることにあった
彼は、要塞が単なる防衛施設として重要なだけでなく、攻勢の基盤として重要であることを周到に強調している
要塞地帯は自国領内の交通手段を確保し、重要な道路や橋頭堡を制して敵地への近接を可能にするような地点に
設定しなければならない
要塞地帯は要塞自体の防衛のために必要な補給物資のみならず、攻勢時の補給集積所として
野戦軍の補給に必要な物資も貯蔵できるよう十分な地積を確保しなければならない
ヴォーバンはこの覚書の中でこのような考えを述べているが、こうした考えは後に彼の弟子の一人で、
技術者で冒険家でもあったメグレによって敷衍され体系化された
メグレの「築城手段による国家安全保障の保持に関する研究」は築城の戦略的意義を扱った標準的著作として
メズィエール校の教範として使用された


そんだけ


165 :戦略都市:2005/11/22(火) 21:26:05 ID:???
メグレは、「最良の要塞とは、国内への敵の接近を許さず、同時に敵の領内で敵を攻撃し得る機会を
与えるものである」と主張し、要塞の重要性を決定する特徴を次のように挙げている
国土への重要な経路となる山の峡谷または峠のような要衝の確保
大河川の要衝である橋頭堡の確保、例えばストラスブールは顕著にこの条件を満たしていた
国内の重要な交通連絡線の確保、例えばルクセンブルグは低地帯に対する神聖ローマ帝国の後方連絡線の
安全を保障していた
更にメグレは要塞を重要なものとする他の要素として次のことを挙げている
攻勢作戦の補給拠点または周辺住民の避難場所であり、更に外国人から通行税を徴収して貿易や商業を
支配する拠点ともなり得るし、良好で安全な港を持つ防備された港湾都市でもあり得る
富を蓄えた国境の大都市で、要塞建設や守備隊配置の費用を上回る寄与をすることもできる
国王の財産を内外の敵から守る場所として利用できる都市ともなり得る
言うまでもなく、要塞の価値は大半が構築された位置の自然条件によって決定される
確かに技術や科学は地形の問題点をある程度は補うことができたが、交通連絡の問題については
ほとんど役に立たなかった
従って、ある要塞が有利な位置にあるということは、防者が後方連絡線を確保し、その結果として
攻者にとっては必要な補給を行うことが困難であることを意味していた


そんだけ


166 :ネットは広大:2005/11/22(火) 21:28:34 ID:???
これらの基準はどの要塞を選ぶかの決定を可能にするが、それ以外に要塞相互の位置関係、連絡の問題が
残されていた
ヴォーバンは1678年の覚書の中で、国境の拠点を二線の要塞線に絞り、各線を13箇所の拠点で構成し、
これを北部国境に沿って延長すれば国境の要塞化は十分であると結論している
第一線は海からシェルト河まで延びている水路が積極的に利用されており、運河や運河化された小流、
または河川が要塞を連絡し、運河も一定の間隔で構築された要塞で防護されていた
この計画は彼の独創ではなく、事実、既に国境線の一部で実施されていた
彼は水路の防御力については幻想を抱いてはいなかった
その主目的は国境の町や村を敵の小部隊の襲撃から守るためのもので、もし敵が大兵力で水路を
攻撃しようとする場合には、我もまた大兵力をもって水路を防衛しなければならなかった
このような計画には新しい工事が必要なのは当然だったが、ヴォーバンは注意深くその計画に
古い要塞の破棄が含まれていることを指摘し、従って国境から遠く隔たっていて
二本の線に含まれない全ての要塞を廃棄することを主張した
これは国家財政の節約と兵力の節約につながり、彼は10基の要塞を放棄すれば、
約3万の兵を他の地域の任務に当てることができると主張していた


そんだけ


167 :プリミティブライン:2005/11/22(火) 21:29:16 ID:???
1678年のこの覚書には将来の征服地についての考察も述べられており、北と東の国境に関する限り、
ヴォーバンが地域的な防衛線の修正以上の野心的な構想を準備していたことを示唆している
彼は将来の戦争の場合に幾つかの敵の要塞を直ちに奪取すべきだと主張した
ディスミュード、クールトレ、シャルルモンは低地帯への攻勢の支踏となり、
その東のストラスブールとルクセンブルグはどうしても奪取しなければならない最重要の都市だった
これらの都市は規模と財力と位置の点でヨーロッパ最良の要塞都市であっただけでなく、
フランスを自然国境まで拡張させる鍵でもあった
フランスの北と東の本来の国境はライン河であるとする考えは、フランス人にとって理屈以前の問題で、
それは国民的感情というより本能に近いものだった
ライスワイク条約の直前、まさにストラスブールとルクセンブルグが失われる不安を覚えた彼は、
「もし我々が再びこれらを獲得できなければ、永久にライン河を境界とする機会を失うだろう」と記している


そんだけ


168 :緩衝:2005/11/22(火) 21:29:39 ID:???
1678年のこの覚書は、ヴォーバンの永久築城の問題に関する最終的な見解を示している訳ではなかった
その後の数々の覚書の中でヴォーバンがその戦略的重要性を詳細に説いているのはパリ要塞のみで、
後は主にどの要塞を廃棄し、どの要塞を拡張または再建すべきかについての詳細な提言に終始している
ヴォーバンの考えは刻々と変化していったが、それは主にルイ14世治世後期の財政難と労働力の不足に
よるものだった
ヴォーバンも、要塞の新造以上に要塞の廃棄に努力を払わなければならなくなり、1678年の覚書の中で
国境防衛の第二線に挙げた多くの要塞の廃棄を主張せざるを得なくなっていた
同時にルイ14世の軍隊はますます防勢的に使われつつあり、ヴォーバンも次第に防勢的思想に順応していった
彼は北方国境線に沿った水路にこれまで以上に大きく依存するようになっていた
ただし彼はこのような防衛の固有の弱点を承知していた
1696年の覚書で、彼は要塞を補強し水路を強化するため、壕で強化された陣地の構築を主張した
この陣地の目的は、要塞間を連絡する水路の防護だけでなく、要塞の警戒陣地や前進陣地として
要塞の防御力を強化することにあった
精巧に補強された陣地を要塞の外堡の前方に複数構築して小兵力を展開することにより、
攻撃部隊の前進を遅らせ、広い戦闘正面を強要させることができた
この築城陣地で補強された連続する防衛線の強調と、かつて1678年に提案していた第二要塞線の廃棄を
主張したことは、彼がますます縦深の浅い一線防御へと指向していたことを示唆している
彼は先人から受け継いだ要塞地帯の混沌を単純化し、最初にそれらを二線の要塞線に整理し、
更にこれを単純化し、部隊によって掩護された要塞を設定してこれを一列の前哨線とした
これをもって、後のギベールの主張、すなわち国家の真の防衛は要塞ではなく軍隊にあるとし、
軍隊が国家という大要塞の活動的で柔軟な幕壁を構成し、要塞はその中の単なる稜堡に過ぎないとする思想に
近いと見なす説もあるが、この偉大な技術者が晩年に要塞よりも軍隊そのものを重視するようになった証拠と
見なすことは難しい
軍隊はますます巨大化の途を辿り、その負担は絶対主義国家ですら耐えがたくなりつつあった


そんだけ


169 :ウォー・モンガー:2005/11/23(水) 00:12:57 ID:???
1740年、無警告でシレージエンに侵入したフリードリヒ2世は、三次にわたる戦争の末に
かねてから熱望していたシレージエンを獲得し、彼の小さな王国を二倍の大きさに広げた
彼は時には信じ難いほどに不利な状況で戦い、敵のどの将軍も比較にならないほどの才能を示した
プロイセンは君主国家の主要な特徴を持ちすぎるほどに持っていた
ヨーロッパ列強の中でもプロイセンは最も機械的に組み立てられており、政府の支配力は最も強く、
国民の精神は最も生気が無く、物的・人的資源ともに最も恵まれていなかった
フリードリヒはまた大量の著作を書き、文才にも恵まれていた
このような王国のこのような王の最初の重要な軍事関係の著作である「戦争の一般原則」は1746年に書かれ、
第一次及び第二次シレージエン戦争の経験を具体的に説明されている
この本は極秘に部下の将軍たちに回覧されたもので、1760年に一人の将軍が捕虜になったことが
公刊される契機になった
王の思想はその後更に発展し、1752年には自分の継承者のためだけに「政治的遺言」としてまとめられた
「政治的遺言」には付録として「戦争の一般原則」がつけられていた
1768年に彼の戦争が終わり、また後継者のために「軍事的遺言」を書いたが、これは彼の考えが
いくらか修正された時期にあたる
1771年、今度は将軍たちのために「布陣と戦術の基礎原理」を出版した
彼は頻繁に陸軍の各兵科のために指示を出したが、それらはまとめられて他の著作とともに
1846年に出版された
彼が公表した著作の中には教訓的詩文調で書かれた「戦争術」、軍事問題を扱った多くの政治論や、
彼の統治に関する歴史や回想録が収められている
理論的な著作の多くはフランス語で書かれたが、戦術的、技術的指示の多くはドイツ語で書かれていた
彼の文筆の経歴は40年以上に及び、軍の組織と戦術に関しては若干の修正はあるものの、
基本的なポリシーに一貫して固執している
しかし、戦略と戦争政策に関しては、1740年頃を境に積極から消極へと大きな変化を見せている


そんだけ


170 :戦の国:2005/11/23(水) 00:13:38 ID:???
プロイセンの為政者たちは、古い時代から軍の編成に関心を示してきた
フリードリヒ2世の曾祖父の大選帝侯は、三十年戦争真最中の1640年に即位した
当時はまだプロイセン王国ではなく北ドイツ平原沿いの数区画の土地にしか過ぎず、
しかもそこは様々な参戦国が雇った傭兵たちに満ち溢れ、蹂躙の限りをつくしていた
大選帝侯は軍隊を組織し、この軍隊を維持するために絶対主義的な新しい政体と新しい経済制度を定めた
ホーヘンツォレルン家によって作られたプロイセンは周到な計画の成果だった
フリードリヒの父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の時代までに、プロイセン王はヨーロッパで
最も勤勉な人間の一人に数えられるようになっていた
彼は身をもって国を指導し、国を動かす全ての決定権を握った
プロイセンにおける秩序は自由な討議や協力から生まれるものではなかった
フリードリヒの見解によれば、プロイセン王は軍隊によって国の各階層間に、また経済と軍事の間に
確固たる均衡を保持しなければならなかった
また、貴族が土地を平民に売ることを禁じて貴族階級を温存しなければならなかった
彼の考えでは、農民たちはあまりに無学で将校が務まらないのは明白であり、ブルジョワ出身の将校は
「陸軍の没落と衰退の第一歩」であり、家系と譲渡できない世襲の土地で構成される厳格な貴族階級こそが
陸軍と国家にとって必要不可欠な要素だった
フリードリヒは、勇敢な大佐は勇敢な大隊を作り、危機に際して大佐の決断は国運を左右すると述べ、
貴族たちに相応しい精神を涵養させようとしていた
彼は「政治的遺言」の中で、戦争中、将校たちにプロイセンのために戦っているという観念を植えつけるのに
非常な努力を払ったと告白している


そんだけ


171 :マンハント:2005/11/23(水) 00:14:22 ID:???
フリードリヒは普通の兵卒が彼への奉仕のためにその命を賭した時にはぞんざいに敬意を表してはいるが、
しかし兵に対する本当の関心は、規律と物質的な問題がほとんど全てだった
農民の家族、すなわちエルベ河東岸の農奴には保護が必要であり、彼らの土地が貴族やブルジョワに
奪われてはならなかった
そして、次男以下のような農業に必ずしも不可欠ではない者のみを動員しようとした
あらゆる点において農民と市民は最も役に立つ生産者だった
「勤勉で有用な人々は掌中の珠として守らねばならない
戦時における補充兵は最も差し迫った必要に迫られた場合にのみ国内から徴集されなければならない」
従って、陸軍の半数以上がプロイセン人ではない職業的な軍人、捕虜または外国の軍隊からの逃亡者によって
補充されていた
フリードリヒは、徴募負担を均等にするように特定の連隊に人的戦力の索源として特定の地区を割り当てる
カントン制を賞揚した
この制度と外国人の採用によって、1768年に彼は毎年徴募しなければならないプロイセン本国兵が
僅か5000名であることに満足の意を表している
彼は、カントン制が同郷の兵士を団結させる効果があるとも考えていた
1746年、彼は国民から徴募された自分の軍隊が名誉と勇気をもって戦うと記している
「このような市民からなる部隊をもってすれば、全世界を屈服させることができるであろう」
その後、フリードリヒは他の思想家たちと同様に愛国心の理論的価値を高く評価するようになったが、
彼はそのために何もしなかったし、また王国を改革せずにできるはずもなかった
実際に彼は、普通の兵士は名誉を持たないし外国人を戦争に用いるのは分別ある国策にすぎないという信念を
死ぬまで持ち続けた


そんだけ


172 ::2005/11/23(水) 00:15:02 ID:???
フリードリヒは兵士たちの人気取りに長けていた
戦場で負傷した兵士に直接親しく語りかけ、自分のハンカチを手渡したりして同行の外国の観戦武官を
感動させるようなちょっといい話には事欠かなかった
しかし、だからと言って兵士たちが王に対して特別に強い愛着を感じていたわけではなかった
兵の逃亡は18世紀を通じて全ての指揮官にとって自然現象に近く、事故や病気と同じく
あらかじめ予想された非戦闘損耗だった
特に政治的に分裂していたドイツでは、戦場で敵味方に同じ言葉を使う兵士を発見することは難しくなかった
1744年、フリードリヒは脱走兵のためにボヘミアへの進軍を中止しなければならなかった
彼は逃亡を防止するために詳細な規則を定めている
部隊は森林の近くに宿営してはならず、部隊の側方と後尾は常に軽騎兵で監視しなければならず、
やむを得ない場合を除き夜間行軍を禁止し、馬糧徴発や水浴に行く時は隊伍を組んで常に将兵が引率しなければ
ならないと規定されていた
信頼できない体質の軍隊を率いなければならなかったので、フリードリヒは厳格な軍紀を強調したが、
彼の父王の時代からプロイセン軍はこうしたことに慣らされていた
彼は、「軍紀の些細な弛緩でも軍隊は野蛮化する」と述べている
一般に軍紀の目的はある程度は温情主義から出ており、権力によって兵士を酒浸りや窃盗のような罪を
犯さない真人間にしようという点もあったが、その主たる狙いは軍隊を単一の精神と意志の道具に
変えることだった
将兵はあらゆる部隊の行動が「一人の人間の動き」であることを理解しなければならなかった
また、「誰も考えないで皆でただ実行」していればよかった
考えることは国王の仕事だからだった
フリードリヒは、兵に対してできることは彼らに団結心を与え、彼らの個性を連隊の中に
溶け込ませることだけだと記している
歳を取るにつれてだんだん皮肉になっていくに従って、彼は兵士に対して善意は威嚇よりも効果が少ないと
認めるようになった
「名誉は兵士に対して何の効果もないので、いかなる危険よりも指揮官を怖れるようにしなければならない」
しかし彼は、人間は良い治療を必要とするものであるとも付け加えている


そんだけ


173 :犬の従順:2005/11/23(水) 00:15:35 ID:???
軍紀によって従順になった軍隊は念入りな訓練を施された
プロイセンは練兵で有名になり、大隊や大隊集成の戦闘団が高度の正確さをもって複雑な機動演習を演じて
外国の視察者を驚嘆させるのが定番となった
訓練の目標は、戦術的な機動の発揮、行軍隊形から戦闘隊形への巧みな移行、敵砲火下での着実な行動、
命令に対する完璧な実行を達成することだった
フリードリヒは、よく訓練された軍隊こそが将校の能力の十分な発揮を保証すると再三述べている
指揮官は、彼の構想が実行されるという保証があって初めて構想を立てることができるし、
全てを掌握しているので全体を総括する思考を自由に働かせることができる
従って、フリードリヒは将軍たちに対して、平時戦時を問わず訓練に不断の監視を怠らないよう強調し続けた
「兵士が戦時になすべきことを平時にあらかじめ訓練されていなかったならば、
将軍は自分の職業すら知らない人々を抱えているに過ぎない」


そんだけ


174 :ポーン:2005/11/23(水) 00:16:19 ID:???
こうして練り上げられた部隊をもってすれば、戦闘は秩序整然と遂行されることになる筈だった
相対する両軍は兵棋盤の駒のように整然と方式どおり配置され、両翼に騎兵が、後方に砲兵が均等に展開し、
歩兵大隊は運動の余地と砲兵の射線を確保するため一定の間隔をとった二つの平行した密集隊形の線を形成し、
各横隊または少なくとも第一線の横隊は三列で形成されていた
もちろんフリードリヒは具体的な目標に応じて自由に修正を施していたが、最後までこの基本的な戦闘隊形から
逸脱したことはなかった
フリードリヒは、部隊は縦隊で行進し、急旋回することによって各縦隊が翼に騎兵を配置した射撃隊形を
作れるような行進順序で行軍しなければならないとしていた
戦闘隊形は猛訓練の最終目的で、数百メートルも離れていない敵に暴露した状態で兵を立たせ、
肘と肘が前後に重なる(「接する」ではない)くらい密集した横列を維持することは容易ではなかった
命令は厳格だった
「もし戦闘中に兵が周囲を見回す素振りをし、または横隊の列の外に足を踏み出すようなことがあれば、
下士官は速やかにその者を刺し殺さなければならない」
もし敵が敗走しても、横隊はその位置に停止していなければならず、死者や負傷者からの略奪は死刑をもって
禁じられていた
フリードリヒは騎兵を重視し、最終的に騎兵は戦闘兵科の最大四分の一を占めるに至った
しかし、彼は常に騎兵を密集した戦術部隊として使用するに過ぎなかった
プロイセン陸軍は兵科として軽騎兵を保有していたが、軽騎兵とは名前のみで、その運用は基本的に
重騎兵のそれと変わらなかった
フリードリヒは騎兵が偵察や斥候と称して指揮官の視界の外で行動するのを認めようとはしなかった
従って、プロイセン陸軍の偵察能力は貧弱だった
1744年、彼は2万の騎兵を擁しながらオーストリア軍の所在を偵知できなかった
また彼は斥候や警戒に軽歩兵を用いることも苦手だった
オーストリア軍はクロアチア兵とパンドゥール兵による軽騎兵と軽歩兵の部隊を整備していた
フリードリヒは、戦列を組まずに散開して戦う軽兵部隊をどう使えばよいのかほとんど知らなかった


そんだけ


175 :高楊枝で血まみれ:2005/11/23(水) 00:16:57 ID:???
16世紀以降、砲兵の戦闘兵科に占める比率は逐次上昇していく傾向にあったが、18世紀中頃はその比率が
飛躍的に上昇した時期でもあった
オーストリア軍はプロイセンの機動縦隊の脅威に対抗するために特に砲兵に頼った
フランスはヨーロッパで最も進んだ砲兵隊を保有していた
フリードリヒはこのような状況を残念がっていた
迅速な機動発揮の価値を認めていたフリードリヒこそ、強力な砲兵戦力の必要性を理解しなければならなかった
しかし、列強の中でプロイセンが砲兵の増強競争を行う財力に最も欠けていた
このため彼は、砲兵を独立した兵科ではなく、歩兵や騎兵の補助兵科に過ぎないと主張し続けた
彼は砲兵将校に対して、徹底的な制圧射撃や対砲兵射撃を避け、敵の戦線に突破口を開き、
友軍歩兵の突撃を支援することのみに砲弾を集中すべきだと指示している
この考えは七年戦争中に多大な出血とともに修正され、やがて彼は当時の砲兵理論に理解を示すようになるが、
それでも1768年に砲兵の流行は国家財政の底をはたくものだと苦言を呈している
当時の長い連続した密集戦闘隊形で両軍が正面衝突すると、戦場は屠殺場になった
このためフリードリヒは側面攻撃を重視するようになり、斜行戦術を考案した
プロイセン軍の優れた機動力と調整力は、斜行戦術における翼運動において効力を発揮するために
練られたものだった
王の机上を出発点とするこの戦術ドクトリンは柔軟性に致命的に欠けていた
斜行戦術は成功すれば僅かな損害で大戦果が期待できたが、そのためには全てが予定通りでなければならず、
どれか一つでもうまくいかなければまず確実に失敗し大損害を覚悟しなければならなかった
しかも、完成された戦術ドクトリンでもなかったため、戦場での実験を経て何度も修正を加えられた
初期の斜行戦術は、フリードリヒが機動の発揮を優先するあまりに火力を軽視し、攻撃前進する歩兵に
射撃すら禁じて銃剣突撃に徹していた
さすがにこれは後に改められたが、それでも斜行戦術の致命的な硬直性が克服できたわけではなかった
七年戦争の最後の年、彼はもはや斜行戦術を試みようともしなかった


そんだけ


176 ::2005/11/23(水) 00:17:25 ID:???
陸軍の組織と戦術に関して、フリードリヒは自己の意見を大きく変更することはなかったが、
戦略についてはその考えを変えた
最初彼は新しい思想を導入するように見られたが、結局は政治秩序によって課せられた限界を認めた
シレージエンへの彼の奇襲侵攻はヨーロッパを震撼させた
第一次シレージエン戦争はプロイセンにとり非常に大きなギャンブルだった
第二次シレージエン戦争では彼は一時期ハプスブルグ家の全面的破壊さえ望んだ
この計画は失敗に終わったが、フリードリヒはシレージエンを確保できた
彼の戦争計画はシレージエンへの最初の一撃を除けば野心的でも大胆でもなかった
七年戦争では、恐らくプロイセンを破滅から救うことになったロイテン、ロスバハ戦の後、
少なく見積もっても四倍の人口を有するフランス、オーストリア、ロシア各国の連合軍に対して
防勢を維持するにとどまった
フリードリヒ最後の戦争となったバイエルン継承戦争はほとんど無血の軍事的示威行動と行進に終始した
「戦争の一般原則」の中で、彼は奇襲的な戦略について認めており、プロイセンが行う戦争は「短くて激しい」
ものでなければならないので、プロイセンの将軍は迅速な決着を追求しなければならないと説いている
これは実際に彼が最初に実行した原則だった


そんだけ


177 :あらかじめ失われ決してめぐり合えないもの:2005/11/23(水) 00:18:34 ID:???
しかし、このシレージエンへの果敢な作戦をとった理由と、その後の徹底した防勢をとった理由は
ほとんど同じだった
プロイセンの乏しい戦争資源、あらかじめ準備された固定倉庫に依存した作戦、よく訓練されているが
攻勢に出るには十分ではない兵力等の制約条件のいずれもフリードリヒは克服できなかった
彼はプロイセンを裕福にすることができず、ただその資源を節用するにとどまった
彼は兵站上の制約を克服するために、フランス軍が部分的に採用していた現地調達方式を主張したが、
これを実行することはできなかった
彼は、自活させるために部隊を分散させたならば、軍隊はたちまち蒸発してしまうだろうと危惧していた
彼はまた占領地で快く迎えられることも期待できなかった
彼はボヘミアにおいて第五列を組織しようと努力したが何度も失敗している
加えてシレージエン失陥後にオーストリアが砲兵と要塞を強化したことも、フリードリヒが攻勢を選択する上で
技術的障害となった
大きな恒久的補給倉庫と脆弱な国境線を抱えていた彼は、固定化された要塞の価値を高く評価していた
彼は要塞を「領土を結合する鋲」であると述べ、そのような要塞を包囲し奪取することが戦争の主目的となった
攻城戦はヴォーバン以来一つの科学と見なされており、フリードリヒもこの伝統を受け継いでいた
彼の戦闘の概念もその影響を受けていた
「我々は戦闘のための兵力配置も攻城陣地の原則から得なければならない」
1770年に彼は、戦闘隊形の歩兵の二線配置は攻囲軍によって形成される平行壕の形に一致するものであると
述べている


そんだけ


178 :捕囚の鎖:2005/11/23(水) 00:20:30 ID:???
フリードリヒは、実戦で成功を収めた指揮官であるにも関わらず、決戦を好まなかった
戦闘の結果は余りにも多くの偶然性に依存しており、偶然は合理的な計算に反するものだった
フリードリヒにとって、科学的戦争の第一の原則である作戦を計画する知性と服従を引き出す統率は、
決戦の最中には期待できるものではなかった
「注目すべきことは、戦闘を好む多くの将軍たちが他の手段の不足のためにこの便法を行使することである
これは将軍たちの功績と見なされるどころか、通常彼らの能力が貧弱である証拠と思われる」
敵の主力を殲滅することはフリードリヒの戦略目的ではなかった
彼は、戦闘で勝利したならば決定的な追撃を行うべきであることを知っていたが、彼の軍隊がこの決定的追撃を
行うことは容易ではなかった
密集隊形での襲撃のみを訓練された騎兵は小部隊に分かれて敗走する敵を追尾する芸当などできなかったし、
もし分散したならばそのまま統制を失って脱走するおそれがあった
結果的に言えば、フリードリヒの戦闘の目的は、敵が動かざるを得ないようにすることだった
「戦闘とは汝の敵にその位置を汝に明け渡さざるを得ないようにすることである」
まさしく七年戦争までのフリードリヒの戦略は、一貫してシレージエンの確保と維持という目的に
限定されていた


そんだけ


179 :小さな安心:2005/11/23(水) 00:20:57 ID:???
フリードリヒの戦争は、1740年を例外に、複雑な機動と小さな勝利を巧妙に蓄積していく戦いだった
戦術面を除いて、戦争の様相は1746年に彼が主張している「短くて激しい」戦争とは
ずいぶん異なるものだった
1768年に「多くの小さな成功を得ること」は「徐々に財宝を蓄積することを意味する」と述べ、
1770年には更に、「戦争における全ての機動」は「将軍が有利な態勢で占領し得る地点、
最小限の損失で攻撃し得る地点にかかっている」と付け加えている
彼はボヘミアでの失敗から、「軍隊は国境から遠く離れた場所では成功裡に作戦することはできない」と
述べている
1775年には、「私の見るところでは、戦争を企てる者が国境から遠く離れて遂行する全ての戦争は、
母国の手の届くところで戦う場合よりはるかに成功しにくい
国境から遠く離れた場所では食糧の補給も、新しい兵卒や馬匹、衣料、弾薬を十分に補給することも
困難だからである」と記している


そんだけ


180 :アクティブディフェンス:2005/11/23(水) 00:24:17 ID:???
フリードリヒの戦略思想は伝統的な消耗戦略に沿ったものだった
彼はシレージエンの確保という戦争目的のために徹頭徹尾徹底した消耗戦を戦った
彼は依然として状況さえ許せば奇襲の機会を執念深く窺い続け、七年戦争後の平和な数年間でも、
彼はザクセンやボヘミアに奇襲をかける態勢を準備していた
詳細な地図を準備し、国家機密としていた新型の10ポンド曲射砲を用意していた
彼は戦場では攻撃を好み、明らかに劣勢の時や時間を稼ぐ必要がある場合を除いて防御を選ばなかった
しかし、防御の時でも要塞や陣地を基点とする機動防御でなければならなかった
「指揮官が全く先制しようとせず、会戦の間何の活動もしなかったのに、防御戦をよく戦ったと考えたとしたら、
それは自己欺瞞である
そのような防勢作戦では結局は守ろうとする国土から全軍が駆逐されてしまうだろう」


そんだけ


181 :明日の戦争:2005/11/23(水) 00:25:06 ID:???
彼は当時の戦略環境に生きる国家指導者として、戦争から期待できる利益について大きな期待をしていなかった
彼がデビュー戦で上げた成果は際どい大博打のようなもので、彼の一生を通じてヨーロッパの勢力均衡に
大きな影響を及ぼしたが、彼は今後も同じような大成功が得られると信じるほどメルヘンではなかった
彼はプロイセンがゆくゆくはポーランド、ザクセン、西ポーメルンへ領土を拡張できると信じていたが、
一方でヨーロッパ列強の勢力均衡も支持していた
1775年に彼は当時の軍事的な現状維持の支持を表明している
「野心家たちは、ヨーロッパ全域を通じて軍隊の装備と訓練がほぼ同じ水準にあり、同盟関係が全般的に
各勢力の力を均衡させているので、現状で期待できる最大の成果も、成功を積み重ねてせいぜい国境の
小さな都市を手に入れるか、または戦費に見合うだけの利益も期待できないし、失われた人員に及ばない程の
住民しかいない土地を手に入れる程度だという事実を考えるべきである」
更に彼は近隣の大国も恐れてはいなかった
「(プロイセンのような)小国でも、勤勉さと秩序を自国の問題に投入できれば、(フランス、オーストリア、
ロシアのような)大国に対して安全を維持できる
私は大帝国が弊害や混乱に満ちていることを知っているし、大国の宮廷の陰謀が小国を滅亡させようとし、
また常に有害な影響を及ぼそうとするだろうが、小国が多数の歩兵を維持することを妨げることはできない」
フリードリヒは、大国のうち最も巨大な国が弊害や混乱を整理して持てる力を全て戦争に注ぎ込んだ場合、
「ヨーロッパの均衡」がどういうことになるのかについて何も考えていなかった
彼はフランス革命を予見していなかった


そんだけ


182 :名無し三等兵:2005/11/23(水) 00:59:34 ID:???
キモイなあ
ダラダラ長いご高説は自分のHPでやれば

183 :名無し三等兵:2005/11/23(水) 01:03:28 ID:???
そんだけ氏、>>182の戯言は聞かずに続けてください。

184 :名無し三等兵:2005/11/23(水) 01:16:46 ID:???
取り巻きは差し出口をはさまず、だらしなく口あけてエサを待ってろよ。


185 :名無し三等兵:2005/11/23(水) 01:27:32 ID:???
ひがみ乙

186 :名無し三等兵:2005/11/23(水) 01:28:40 ID:???
しかしこれだけの長文は読むのが大変なのも確か。

187 :名無し三等兵:2005/11/23(水) 02:05:22 ID:???
こういうのはろくに本読んでないやつが有り難がるんだろう。
某「日本唯一のナポレオニックサイト」も、資料からの無断転載が多々ある。
引用との表記無しで、資料から数ページ分まんま書き写すのは、「参考にした」とは言わない。
これは、読んでるやつにしか知りえない事実。


188 :名無し三等兵:2005/11/23(水) 02:15:02 ID:???
面白けりゃどうでもいいよ。

189 :筆士:2005/11/23(水) 08:19:47 ID:???
フランスでは革命戦争の下地は既に用意されつつあった
海外植民地と大陸の覇権を失った1763年の屈辱的な平和条約の後、フランスは真剣な軍事組織の再編を
始めていた
グリボーヴァルは砲の規格化による部品交換方式を導入し、射撃精度を向上させ、砲を軽量化することによって
砲の機動性を高め、砲兵に大発展をもたらし、彼の開発した砲は1820年代まで標準型式として残った
ド・ブロイ元帥とショワスール公は、1760年代に陸軍の編制単位に師団を導入した
師団はその後発展して将官が指揮する兵科連合の最小単位部隊として整備された
大規模な野戦軍は、戦場で連続した前線を形成する単一の集団から、分離し独立的に行動する単位部隊の
集合体になった
司令官にとって新しい戦略的戦術的可能性が開かれ、師団長級の指揮官は作戦においてフリードリヒの時代には
想像すらできなかった重要な地位と役割を果たすようになった
フランス革命戦争において師団はその威力を示すことになる
1763年以降、これらの実際的な革新に伴い多くの理論的著作が著された
ギベール伯もその中の一人で、1772年に「戦術一般論」を出版した
当時彼は弱冠29歳だったが、この本でたちまち有名になり、サロンの花形となり、ド・レスピナス嬢と
恋に落ちて三つの悲劇の詩を書いたりした
彼は一時期陸軍省に勤務し、1789年に三部会への代表選出のために召集された地方議会の一つで、
始まったばかりの革命から粛清されて1790年に死んだ
彼は移り気で自信過剰で才気に富んだ文学者で哲学者でもあり、同時代の人々から天才と目され、
定見がなく誇張的で感情的だった
彼は他の哲学者と同様に、彼らの目に現代的で啓蒙的と映っていたフリードリヒ2世を熱烈に賞賛しており、
将校としてドイツやコルシカで勤務していた際に「戦術一般論」を著した


そんだけ

190 :他人には厳しい:2005/11/23(水) 08:22:15 ID:???
「戦術一般論」でギベールは二つのテーマを論じた
一つは国民軍の設立、一つは機動による戦争で、ギベールによれば、両者はともに戦術の概念に
含まれるべきものだった
当時の戦術という用語は、現代の戦略に当たる「大戦術」と、現代の戦術に当たる「基本戦術」を含み、
一般には軍隊の機動を意味していた
ギベールはこれらの用語の意味があまりに狭義すぎると非難した
彼の考える戦術は、実質的に全ての軍事技術を意味した
それは二つの分野に分かれ、第一は軍隊の動員と訓練、第二は将軍の運用術、すなわち当時の人々の言う「戦術」、
今日で言うところの「戦略」と「戦術」だった
この若い哲学者は彼の言う広義の戦術を普遍的真理の段階にまで高めようとした
「それ(広義の戦術)はあらゆる時代、あらゆる場所、あらゆる兵器に通じる科学となる
要するに、それはこれまでの時代に軍事的に有用と認められたものと、我々自身の時代が加えることの
できたものの成果である」
国民軍設立のテーマは、当時の哲学者の業界では共通の信条だった
モンテスキュー、ルソー、マブリや1770年代までに自由主義的見解を作り上げたその他著名でない人々は、
圧政に対する安全装置として国民を武装し訓練しなければならないと主張した
ディドロの「百科全集」の寄稿者で後に革命政府で陸軍大臣になったセルヴァンも、1780年に
国民兵についての本を出版していた


そんだけ


191 :貧弱:2005/11/23(水) 08:22:43 ID:???
ギベールは強い時流に乗っていた
彼は、当時のヨーロッパ諸国の政府は全て専制政治の機械であり、全ての人民は出来ることならば
それを打倒したいと考えており、どの人民も政府のために戦おうとは考えておらず、どの政府も軍事科学に
関心を抱いていないと主張した
また、プロイセンでさえ規律は全く外面的なもので、住民たちは軍事には無関心であり、
若者は勇ましいスパルタ式習慣を身につけていないし、フランスは国王が軍人ではないのでもっと駄目だと
説いた
各国の国民は戦争に無関心で、それは捕虜になっても冷酷に虐殺されないし、征服された住民も
時折軽い貢税を納める程度で、不便を蒙らなくなっているからである
要するにヨーロッパの全ての国民は軟弱で全ての政府は弱体である
しかし、「ヨーロッパのある国民が精神でも政治でも活用できる手段の面で力強く立ち上がれば、
つまり堅固な素質を持つ国民が国民軍と規定の膨張計画を結合させたならば、
近隣諸国を服従させ北風が葦を靡かせるように我々の弱体な体制を圧倒してしまうだろう」


そんだけ


192 :蛇尾:2005/11/23(水) 08:23:12 ID:???
この飛躍した文脈はフランス革命戦争の予言としてしばしば引用されたが、実際にはそうではなかった
ギベール自身は、立ち上がるような活気のある国民は現れないだろうと予測していた
彼は自分の理論を実証するに十分なほどの変化は生じないだろうと予想していたが、
世界が非常に衰退しているので、ほんの少しの改革でも行う国は他国に大きく優越できるだろうと考えていた
そして彼はこのことをフランスに期待していた
彼は、フランスが国民の活力を軍隊に取り込むことにより決定的で迅速で壊滅的な戦争を発展させることを
期待していたが、これだけのことでさえその実現をほとんど期待していなかった
彼は、戦争の欠陥は政治的な革命なしに改められることはないと断言していたが、革命は問題外だった
他の哲学者と同様に、ギベールも革命思想の後に革命運動が起こるとは考えていなかった
「(なさねばならないのは)国民軍や完全な軍隊を持つことができないなら、我が軍を少なくとも規律化し、
訓練することである」
従って、一般原則を美辞麗句で並べ立てた後で主題に入ると、フリードリヒと同じ結論、すなわち国民軍は
理論的には最良だが、大部分の兵は国民でないのだから彼らを厳格に訓練し教育しなければならないという、
フリードリヒの1746年の見解と同じ結論に達していた


そんだけ


193 :肉で鉄を制する:2005/11/23(水) 08:23:42 ID:???
「戦術一般論」の第二のテーマである機動戦の主張は、国民軍についてよりもはるかに進展していた
このテーマについても、全体を通じて、18世紀の文化があまりにも複雑で繊細であることを嘆き、
粗野でスパルタ的な徳性を理想とする感情論が基礎となっている
ギベールは、戦争の各要素を単純化することにより戦争を機動的で決定的なものにしようとした
彼は、当時の軍隊は余りにも巨大で砲兵を過大評価し、要塞と倉庫が大きすぎ、地誌の研究をやり過ぎていると
考えていた
要するに自分が良く理解できていないことを否定しているに過ぎないのだが、彼はそれを、ヨーロッパの
諸国民が精神力を欠き、物質や空虚な数字のみを増加させ、金銭にのみ頼って勇気に欠けているからだと
考えていた
軍隊の規模や砲の量は常に増大する傾向にあったが、ギベールは、国民軍の考えにいかに傾倒していても、
巨大な軍隊は当局者の無能の証拠と見なし、どんな名将でも7万以上の作戦部隊は邪魔なだけだと主張した
当時の砲兵競争についてもフリードリヒの考えに共鳴していたが、フリードリヒが主に自国の財政的事情から
否定的にならざるを得なかったことを考慮すれば、ギベールとフリードリヒの考えはその本質で決定的に
異なっていた
ギベールは初期のフリードリヒと同様に砲兵をあくまで補助兵科と考え、独立した戦闘兵科とは認めなかった
当時、グリボーヴァルによる大砲の技術革新は専門家の意見を大きく分裂させていた
ギベールはグリボーヴァルのような装備の改良には好意的な中立的立場をとったが、同時代の砲兵理論家、
例えばデュ・テーユの提唱していた砲兵理論、すなわち軽量で機動性の高い野砲の統一運用による
集中的な火力発揮のような運用面の発展は全く評価していなかった
後に、この砲兵理論はフランス陸軍の砲兵将校の中で最も成功したナポレオンの戦術を形成することになる


そんだけ


194 :足場は利用するためにある:2005/11/23(水) 08:24:13 ID:???
ギベールは要塞や倉庫についても評価せず、軍隊は占領地での徴発で生きていくべきだと考えた
軍隊は質素で多くを要求せず、軽易な段列を備え、困苦欠乏に不平を言わずに耐えなければならず、
当時のフランス軍の兵站組織のように文民が部隊に随行して給養を監督するやり方では破滅を招くと主張した
何故なら、軍事的決断が戦闘よりも補給品の防護を優先する文民の承認に依存してしまうからだった
行く先々の国で現地調達により補給を行い、軽快に行動する軍隊は、新しい機動力と行動範囲と奇襲能力を
得られると彼は主張した
更に、ギベールは築城技術がヴォーバン以来非常に過大評価されていると考えていた
彼は、一連の要塞を構築することは戦争を必要以上に高価なものにしてしまっており、要塞守備のために
部隊を分散させることは必要以上に軍隊を大きくしてしまい、作戦は一連の攻城戦となるため戦争は不必要に
長引いてしまうと論じた
彼は、高い機動力を備えた軍隊に対して要塞陣地はいかなる意味でも防御価値を持たないと考え、
要塞はその数を少なくし、戦略機動の補助機能のみを果たさせるべきだと主張している


そんだけ


195 :ユニット:2005/11/23(水) 08:24:45 ID:???
ギベールは軍の機動力を向上させるために当時考案されたばかりの師団制を利用することができた
1772年までは、まだ師団の編制原則は不十分だった
ギベールはフランス軍の新しい師団組織とフリードリヒが戦闘編成した戦闘団的な部隊を
明確に区別できなかった
しかし、構想自体はギベールのほうが明瞭だった
フリードリヒは、前進する各部隊が敵と遭遇した場合に前もって計画された戦闘隊形で持ち場につけるように
行進する部隊を区分していた
ギベールはこの戦闘隊形に依存する行進順序の考えから脱却した
彼によれば、行進中の各師団はそれぞれ縦隊となり、各縦隊は別の経路を機動して戦場に集中し、
指揮官は最前線で予想される戦場を偵察し、作戦を決定し、戦闘編成を定めて各師団の配置を決定した
こうして、戦闘指揮は以前よりも柔軟になり、地形と状況により適合することができた
ギベールは、ホーヘンフリードベルクでフリードリヒがこのような方式を用いたと信じていたが、
これは明らかな誤認で、実際には彼の構想はフリードリヒよりナポレオンに近かった


そんだけ


196 :威勢:2005/11/23(水) 08:25:18 ID:???
「戦術一般論」でギベールが主張したのは、新しい種類の軍隊、理想的には国民軍の提唱だったが、
それは糧を現地に求めることで機動力を向上させ、要塞に拘泥することなく自由に行動でき、
更に師団編成により速やかに機動できる軍隊だった
このような軍隊によって、戦争は古い陣取り合戦から運動戦に変わっていくはずだった
「我々が運動戦を戦うことが多くなるに比例して、我々は現在の定型から抜け出さねばならない
かつてのより小さく、負担のかからない軍隊に戻り、陣地と呼ばれるものを求めることが少なくなる
機動力を備えよく統制された軍隊にとって、陣地は最後の拠り所以外の何ものでもないからである
軍がいかに機動するかを心得ており、戦いを望んでさえいれば、後方から攻撃できない陣地、
または敵が踏みとどまらずにはいられない陣地などほとんど存在しない
陣地とは、戦闘しようとする理由がない時のみ、占拠することが役立つものである」
彼は将来の戦争では、有能な将軍は旧来の意味での「陣地」を無視するだろうと述べている
「私の考えでは、この点で従来の偏見をかなぐり捨てた将軍なら、敵を狼狽させ、呆然とさせて、
息つく暇も与えず敵と戦うか彼の前進の前に退却を続けさせることになるはずである
ただ、そのような将軍は、今日の我々の軍隊とは異なった編成の軍隊を必要とするであろう
その将軍が自ら編成した軍隊ならば、彼の遂行しようとする新しい作戦の準備を整えているだろう」


そんだけ


197 :取り残される:2005/11/23(水) 08:25:48 ID:???
不幸にして予言者としてのギベールの名声を傷つけたのは、1779年に出版した「近代戦争システム擁護論」
において、かつての「戦術一般論」の主張をはっきりと否定したことだった
「私があの本を書いたときはまだ10歳も若く、近代哲学の取りとめのない考えが頭を熱くし、
私の判断を曇らせた」
彼は「戦術一般論」で有名になり、ドイツを訪れてフリードリヒに会い、社交界で専門家として歓迎されたので、
現実世界に満足するようになっていた
「近代戦争システム擁護論」でギベールが擁護しようとした「近代システム」の戦争とは、単に古典的な戦争と
対比するものとしての当時の戦争を指し、すなわち1779年の保守的な軍事技術であり、この本はそうした
「近代」戦争の一側面を取り扱っていた
それは一世代にわたって議論されてきた歩兵戦術における横隊か縦隊かについての相対的価値を論じたもので、
ギベールは保守的立場すなわち横隊による火力発揮を擁護し、縦隊による突撃に反対した
更に彼は最終章に「政治行政との関連で見た今日の戦争システム」を追加して従来の自説を大きく変更している
彼はもはや国民軍の構想を放棄していた
ギベールが「近代戦争システム擁護論」を書いている間に、アメリカではその国民軍がイギリスやヘッセンの
職業的軍隊と戦っていた
多くのヨーロッパの軍人はその戦いを興味深く見守っていた
ラファイエット、ベルティエ、ジュルダン、グナイゼナウは、国民兵と散開戦闘隊形について有望な考えを
得て帰ってきていた


そんだけ


198 :混乱:2005/11/23(水) 08:26:17 ID:???
ギベールは、国民兵からなる軍隊は職業的軍隊に到底対抗できず、アメリカ人の成功の理由は
イギリス軍の無能に過ぎないと主張した
彼は、市民の徴募は古代では役に立ったが、近代国家においてはとてもそのような冒険をすることはできなし、
古代の戦術は単純で火器もなかったが、ヨーロッパの国家は大きくなりすぎ、トルコとポーランドを除いて
この制度は捨てられてしまったし、この制度を残しているポーランドは破滅状態にあると論じた
ギベールはまた「近代的」すなわち職業的軍人による戦争は温和で時には無害な性質を帯びるということを
賞賛しているが、これこそ彼が「戦術一般論」で攻撃した主要な論点だった
今日では征服された国家は復讐と破壊の恐怖から逃れているが、「その住民によって守られている国は、
いずれもこの種の災難を経験するに違いない
一般市民は戦争のような暴力行為に対しては見物人になっているほうが人間的である」
要塞陣地を強調することは弊害もあるだろうが、「結果的には国民の平穏と帝国の安全のために役立つことも
また事実である」
軍事強国間の教育、訓練、資源、戦術が比較的同等になったことが健全な均衡を生み、従って
「戦争が決定的でなくなり、結果的に国民にとって破滅的でなくなるほど、征服の可能性は少なくなり、
野心的な支配者にとって誘惑の対象が少なくなり、帝国の革命も起こりにくくなるだろう」
これで「近代戦争システム擁護論」は終わっている
それはフリードリヒの考えとほとんど異なっていなかった


そんだけ


199 :アイロニー:2005/11/23(水) 08:26:47 ID:???
ギベールは二つの著作において、制限戦争と無制限戦争の差異、または職業的軍人の戦闘と国民の破滅的闘争の
差異に触れている
彼は戦争と統治構造との間に密接な関係があることを認めていた
彼の二つの著作の間の矛盾は、論理的なものではなく精神的なものであり、態度の矛盾であって分析の矛盾では
なかった
29歳の彼は国民軍と機動戦を賛意を持って考えたが、35歳の彼はその考えを否定した
いずれの場合も、たまたま当たった予想を除けば、実際的な先見の明はあまり認められない
「近代戦争システム擁護論」の完成に先立って、政府が行っている戦争に反対する平和主義的な哲学者たちに
対して次のように批判している
「戦争を非難することは無駄である
野心的で不正で強力な支配者は、戦争を非難されたからといって戦争をやめることはまずないからである
しかも、戦争を非難した結果生じるのは、少しずつ闘争的精神を消滅させ、戦争という重要な行政分野に対する
政府の関心を薄れさせ、いつの日か文明的には遅れていても判断と思慮分別のある好戦的国民の支配に対して、
軍備がなっておらず武器の使い方も知らない柔弱で無力な国民を譲り渡してしまうことである」
ここにもフランスにとっての予言があった
しかし、この警告は18世紀には必要ではなかった
哲学者たちの思想で、一般に普及していったのはそのような平和主義ではなかった


そんだけ


200 :血を吐くマラソン:2005/11/23(水) 08:29:46 ID:???
17世紀のヨーロッパの軍隊は空前の規模に拡大するとともに、軍に対する秩序だった管理と統制の原則を
発達させた
これによって新たに規律が強調され、部隊に複雑な階級構造が作られて指揮系統が明確にされるとともに、
指揮官の職は公職とされ、軍隊は政府に奉仕するものと明確に規定された
こうした発展の全ては加速され、更に精巧なものになっていった
重要な革新は軍の組織と運用、すなわち人的資源と戦略に関するものだった
軍隊は国民軍が職業的軍隊に取って代わり、攻勢的、機動的な戦略が緩慢で防勢的な戦略に取って代わった
1792年以降この二つが結合して戦争に大きな変化をもたらし、かつての制限戦争は無制限戦争へと代わった
この変化は国家の形態が君主国家から国民国家への転換に伴って発生し、フランス革命の結果でもあった
フランス革命以前の戦争は本質的には支配者間の闘争だったが、フランス革命以降、戦争は次第に
国民対国民の闘争となり、総力戦的な性格を強めていった


そんだけ


201 :大権:2005/11/23(水) 08:30:12 ID:???
君主国家では軍隊の構成の可能性に明らかな限度があった
国王は理論的には絶対だったが、実際には不利な立場にあった
君主国家は王室と貴族の間の不安定な均衡によって成立しており、貴族の特権は王権の統治活動を制限した
この特権は、税金を免除される権利、軍隊における将校の地位をほとんど独占する権利を含んでいた
課税権が制限されていたので政府は国家の資源の全てを吸い上げることもできなかったし、
国民全てを対象に動員することもできなかった
将校は人口の僅か2パーセントにも満たない世襲の階層からとらなければならなかった
フランス革命によってもたらされた原理とは対照的に、主権者と臣下の繋がりは官僚的、行政的、財政的で、
支配者と被支配者の間の機械的な関係に過ぎなかった
フランス革命の原理は、責任ある市民と国民主権という教義によって、政府と国民の関係に
宗教的融合に近い状態をもたらした
旧体制における良い政府とは臣下にほとんど何も求めない政府であり、臣下を国家にとって有用な価値があり
生産的な財産と見なしていた
戦時においても市民生活はほとんど妨害されることはなかった
良い人民とは、法律を遵守し、税金を納め、王室に対して忠誠心があることだった
国民としての自己認識、または国民としての統一性、公務に対する責任感、戦時に献身を発揮する義務の意識を
持ち合わせる必要はなかった


そんだけ


202 :閉塞空間:2005/11/23(水) 08:32:24 ID:???
軍隊はこの君主国家の状態を反映しており、内部的には共通の精神を欠いた階層に分けられていた
将校の動機は主に名誉、階級意識、栄光や野心に発していた
生活のために長期勤務に服する兵卒は職業として軍務に従事し、愛国心のような精神は持ち合わせておらず、
大抵の場合、最も強い愛着は所属する連隊に対する素朴な誇りの類だった
ロシア、オーストリア、プロイセンの軍隊は自国兵の大部分が小作農か農奴で、プロイセンやイギリスでは
多くの外国人が兵卒として採用されていたし、オーストリアの連隊は言語の異なる人間の雑多な集団だった
そして、どの国でも経済的に最も役に立たない最も堕落した連中が募集される傾向にあった
一般市民はどこでも兵卒を一定の距離を置いて見ていた
当時、兵の半数が自国民で構成されていたため最も国民的な軍隊を持っていたとされるフランスでさえ、
喫茶店やその他の公共の施設に、「犬、従僕、娼婦、兵卒立入禁止」の標示が掲げられていた
兵の大部分が社会からの疎外者であり、将校の大半は若いだけが取り柄の青年貴族だった


そんだけ


203 :上げ膳据え膳:2005/11/23(水) 08:32:54 ID:???
こうした雑多な集団を軍隊として機能させるために、ある種の共通した目的を作る必要があった
部隊の内部にはこの共通目的を確立するための精神的または心理的手段がほとんどなかった
政府は、軍隊には外部と上部からだけしか秩序を課すことはできないと信じていた
18世紀の啓蒙君主たちは、人道的な理由と財源の確保のため、中産階層を兵士にしないよう努めていた
国内の秩序を保つため、また軍隊の士気を確立するために、政府は兵士の健康管理に気を配り、
宿舎に宿泊させ、医者と病院を与え、存分に食糧を与え、かつ補給のために永久的な大倉庫を建設した
おかげで当時の兵卒の軍隊での生活水準は、衛生面でも食糧面でも当時の庶民より相当に恵まれていた
軍隊の中でも最悪の生活環境とされる艦船勤務の水兵ですら、当時の一般的な労働者よりも上等な食べ物を
たらふく食べることができた
職業兵士の最大の関心は生計を立てることであり、相当の生活の保障をしてやらなければ兵の士気が低下し、
脱走してしまうことが懸念されたからだった
実際、18世紀の軍人は将校でも兵でも戦時平時を問わず軍隊から別の軍隊へと、フランス革命後には
考えられない身軽さで渡り歩いていた


そんだけ


204 :軍隊に民主主義はない:2005/11/23(水) 08:33:28 ID:???
このように兵の管理を改善する一方で、規律と訓練に対する厳重な注意も払われていた
鉄の規律のみが兵士の集団を統制された部隊に作り上げることができた
王や貴族たちは、軍隊を構成している下層階層の兵士に対して道徳的資質を期待しておらず、
勇気や忠誠、団結、犠牲、自主性も求めていなかった
兵士たちは君主国家の一般市民と同様に戦争目的に協力する感覚はほとんど持ち合わせていなかった
技術的な理由からも、兵士たちの独自の行動は奨励されなかった
貧弱な交通や通信と信頼性の低い偵察は、戦場で部隊を分割することを非常に危険なものにした
精度や射程よりも発射速度を重視して設計された銃は部隊単位の斉射において最大の威力を発揮した
このため、敵と交戦する際には大隊は兵士の肘と肘が重なるくらい密集した通常三列の横隊を作り、
隣の大隊と密接し、指揮官の号令で斉射した
戦場において戦術的な運動ができるようになるためには長い猛訓練を必要とした
一般に、無宿者を立派な兵士に仕立て上げるには2年でも十分ではないと考えられていた


そんだけ


205 :匠の業:2005/11/23(水) 08:33:56 ID:???
軍の構成は、その運用に大きな影響を及ぼした
財源に制限があった旧体制の統治者にとって、職業的軍隊は高価で、兵士は時間的にも財政的にも
過剰投資の象徴だった
訓練された部隊が戦闘で損耗してしまった場合、その戦力を回復するのは容易ではなかった
輸送能力が貧弱な当時は、弾薬や食料、被服その他の補給品は予想される戦場の近傍に設定する必要があり、
またこれを防衛する必要も生じた
更に17世紀後半には築城技術が発展した
フランスやドイツでは、生産的な市民生活に大きな支障を及ぼした宗教戦争への反発から、
軍隊は一連の堅固な要塞地帯に集中するようになった
軍の主力またはその一部はそれらの根拠地周辺に固定されることになり、そこから5日行程以上離れて
行動することは到底考えられなかった
たとえ倉庫を軍の後方近くに設定しても、部隊は長い段列とともに行動しなければならないので
一日の行程は非常に短いものとなり、しかも段列の規模は容易に縮小できなかった
このような状態では大規模な部隊同士が正面からぶつかり合う野戦は滅多に起こらなかった
戦闘を回避する敵に対して積極を保つことは容易なことではなかった
たまたま両軍が相対したとしても、敵軍と戦うための戦闘準備、特に戦闘展開には時間がかかったし、
一方が戦闘展開している間に他方が戦闘を回避すれば完全な交戦は起こらなかった
実際、戦闘に訴える行為は大きな賭だった
戦場で勝利できても戦果を拡大することは容易ではなかった
徹底的な追撃を行う技術はまだ確立されていなかった
軍事理論家たちは、戦闘になれば勝ったほうも負けたほうと同じくらいの損害を蒙る羽目になると考えていた
従って、戦闘の結果から迅速で決定的な政治的成果は期待できなかった
この点で、18世紀の戦争とフランス革命戦争の違いは明瞭だった
ブレンハイム、マルプラッケ、フォントノワ、ロスバハの後も戦争は数年にわたって続いたが、
マレンゴ、アウステルリッツ、イエナ、ワグラム、ライプチヒの後には数ヶ月で平和提議が始まっている


そんだけ


206 :打率:2005/11/23(水) 08:34:26 ID:???
フランス革命以前は、多くの要因が組み合わされて制限された目的のために、制限された方法による制限戦争が
戦われた
戦争は長引いたが破滅的ではなかった
勿論、戦場の情景は破壊的で、歩兵大隊の一斉射撃は壊滅的ですらあった
しかし、それだけに将軍たちはあまり戦闘をしようとはしなかった
作戦は要塞、倉庫、後方連絡線及び緊要な地点に対する攻撃が好まれるようになり、巧妙な機動が
戦闘より賞賛されるようになった
連続的に小さな利益を積み重ねる戦略のほうが殲滅戦略よりも有力視された
この全てが、1789年以降ヨーロッパを震撼させた衝撃の中で変化していった
1792年から1815年に至る第一次、第二次フランス革命戦争は、初期の仏英間の戦いを除けば
短期戦の連続で、勝敗は戦場で決し、和議の強要をもって終結した
後世の多くの著述家たちが、この変化を、フランス革命によって世論が国家的になり、支配者と被支配者の
関係がより密接になったからだとしている
一方、18世紀後半の火砲、軍隊編制、道路網、地誌の大幅な改善の中に変化の原因を見出す意見も少なくない
いずれにせよ、フリードリヒはいわゆるフランス革命以前のヨーロッパの情勢下で恐らく最高の軍事的偉業を
成し遂げた
ギベールはフリードリヒの弟子を自認していたが、来るべき変化の一部を予見していた
フリードリヒは経験のある実戦指揮官で、一方、ギベールは将校としての訓練は受けてはいたが
指揮官の経験はなく、批評家、予言者、改革論者として有名になった
フリードリヒは戦争を対象として完全に修得しようとした
一方、ギベールは経験に基づくよりも現状を超越することを目指したが、
そのために彼は実情の把握について着実さを欠くことになった


そんだけ


207 :ジェネラルブロックバスター:2005/11/23(水) 16:35:21 ID:???
1805年夏になってフランスの拡張はようやく阻止されたように見えた
フランス海軍はほんの数日も英仏海峡を支配できなかったため、イギリスが侵略される恐れはなくなった
オーストリアはフランスの中部ヨーロッパへの脅威を阻止するため、更に可能ならばイタリア北部奪回のために
ヴェネツィアの北方、チロル、南ドイツに相当な兵力を集中していた
ポーランドからロシア軍の第一陣がオーストリアの支援のために移動しつつあった
プロイセンはいまだ中立を維持していたが、ロシアに誘われて軍を動員していた
第三次大同盟の連合兵力はまだ全てが作戦可能な態勢には達していなかったが、
ヨーロッパの新しいパワーバランスを作り出す基礎になり得た
8月23日、ナポレオンは目標を変更した
大陸軍は英仏海峡を離れ、9月末にはライン河を渡河してドナウ河に進んだ
ナポレオンは慌しく同盟を結ぶと南ドイツをやすやすと通過し、オーストリア軍の後方連絡線と
モラヴィアのロシア軍との連絡線を脅かした
ウルムのオーストリア軍前衛集団3万3000は包囲され、10月19日に降伏した
たいした戦闘もなくフランス軍は11月13日にはウィーンに達した
ナポレオンはオーストリア・ロシア連合軍が増強される前にこれを叩くためにウィーンを通過し、
12月2日にアウステルリッツ村でこれを撃破した
3週間後にはプレスブルグの和約でオーストリアは第三次大同盟から脱落、ヴェネツィアをフランスに割譲し、
フランスは中部ヨーロッパの支配者となった
この一連の事態において相対した兵力の規模と大きさは異常だったが、フランス軍の速度と勝利と、
大陸の伝統的な勢力均衡と抑止のメカニズムを僅か数ヶ月で破壊した皇帝の手腕には恐るべきものがあった
各国の政府に与えた影響は一年間に及び、プロイセンはイエナとアウエルシュテットで敗北し、
フランスの力をロシア国境まで拡げることになった
クラウゼヴィッツは、ウルムのオーストリア軍の「科学的ではあるが脆弱な戦略構想の薄弱な布陣」について、
18世紀の用心深い機動に慣れた将軍たちならば捕捉できたかもしれないが、「革命の皇帝ボナパルトに対しては
強力な防衛陣とはならなかった」と記している


そんだけ


208 :city eater:2005/11/23(水) 16:35:49 ID:???
フランス革命は王政末期の数十年間に進行していた戦争技術の変革と同じ時期に発生し、これと一体化した
軍事組織と軍事力の行使における変化は、既に旧体制下で深く根を下ろしていたものもあれば、
まだ暫定的で試験的に採用されている段階のものもあった
フランス革命政府はそれらを継承し発展させた
激発する国内及び外交政策が軍事政策と連携することにより、フランス革命は軍事上の改革の規模を
拡大していった
これは後に一人の軍人を皇帝に祭り上げることになるが、既に国民公会や総裁政府の時代から国内政策の推進と
対外拡張は進行しており、同時にこの軍事的変革は単にフランスのみの現象ではなくなっていた
軍事上の最も重大な変化は、国民公会が一般徴兵制を徐々に採用していったことだった
発想自体は啓蒙時代後期の軍事・政治文献に既に認められていたが、これによって兵士の数は激増し、
フランスの対外政策に力を与え、フランス軍の指揮官は今までより積極的で攻撃的になり、
損害の大きな作戦を従来よりも頻繁にしかも平然と行うことができるようになった
王政末期までに拡大し技巧を凝らすに至っていた軍事管理組織は、次々に新しい部隊を編成し戦力化することを
可能にした
七年戦争以来の歩兵戦術についての議論の末に生み出された散兵、縦列、横列からなる混合隊形は、
試行錯誤を繰り返しながら革命フランス陸軍において一応の完成を見た
グリボーヴァル、デュ・テーユをはじめとする国王砲兵隊の改良は、革命フランス陸軍に
世界で最も強力な集中力と機動力を備えた砲兵隊をもたらした
歩兵は初めて戦闘の全局面で野砲の支援を期待できるようになり、フランス陸軍の打撃力は著しく強化された
莫大な数に達した兵員への補給は、ある程度までは兵士たちに「戦争は戦争を養う」原則により
現地調達を強要するという、18世紀の革命の方針の唯一の例外によって達成された
ナポレオンはその成功の絶頂で、「占領地で全ての種類の補給品を徴発する方法を知ることは、
戦争術の重要な部分を占める」と記している


そんだけ


209 :実戦テスト:2005/11/23(水) 16:37:37 ID:???
実戦テスト

占領地で自活していくシステムは単に七年戦争以来の傾向を制度化しただけのものだったが、
ナポレオンの戦略と作戦指導の基盤となった
一団となって行動していた陸軍は恒久的な師団、軍団に区分され、大規模な単位集団が相互支援しながら分進し、
広い地域の制圧を可能にし、部隊の維持を容易にするだけでなく、行動の柔軟性を保持することによって
作戦の選択肢の幅を広げた
既に旧体制末期に行われていたが、司令部の拡大と隷下部隊の幕僚の増加は、より大きくかつ広く
分散した部隊の統制を可能にした
こうした軍事技術の変革が革命戦争に及ぼした影響は劇的だったが、すぐに結論を出せるほど
はっきりしたものではなかった
しかし、ブルンスウィック公のヴァルミーへの政治的な遠征が失敗に終わった1792年以降、
自国の潜在的な兵力の一部しか動員せず限定的な目的でしか戦おうとしない敵に対して
新しいフランス軍は著しい成果を上げるようになっていた


そんだけ


210 :ノウハウ:2005/11/23(水) 16:38:04 ID:???
フランス軍はオーストリア領ネーデルラントを占領し、ラインラントに深く侵入した
しかし、フランス軍はこうした多くの勝利を得た一方で多くの敗北を喫していたので、
新しいシステムが明らかに好結果をもたらしたとは言い難かった
これは主に1789年以来の政治的な出来事によりフランスの軍事組織が著しく崩壊していたからで、
旧来のフランス国王軍を早急に拡張し、新政府にとって効率的でかつ忠実な部隊に転換することは困難だった
一連の軍事変革の各要素を体得し、それらを戦場でいかに統合するかを学ぶには更に試行錯誤が必要だった
しばらくの間、フランス陸軍の戦果はあまり振るわなかった
1796年、この新しい戦争機械はイタリアで誰にも否定できない最初の大成功を収めた
その時までに、一般徴兵制はフランス陸軍をヨーロッパ最大規模の陸上兵力に仕立て上げ、
将校と下士官は新しいスタイルの組織と管理、戦術の経験を積んでいた
しかし、まだ立ち塞がる者全てを吹き飛ばすには至らなかった
第二次大同盟との戦いはフランスの連敗で始まり、1796年のナポレオンの戦果は1799年の夏までに
全て失われてしまった
リヴィエラを除く全イタリアが再び大同盟に奪回され、オーストリア軍が再び南ドイツを支配した
フランスの戦争組織は明らかに旧体制よりは優れているものの、それはあくまでも条件付の優位であり、
絶対的でも決定的でもなかった


そんだけ


211 :ノーポリシー:2005/11/23(水) 16:38:35 ID:???
ナポレオンは創始者でも改革者でもなかったが、共和国の新しい指導者たちが完全に理解することも
活用することもできなかった改革者たちの業績を活用し、当時の軍事的な変革を体現した人物だった
統領政府時代から、徴兵は1790年代よりも更にシステマチックに、かつ広範に適用されるようになっていた
陸軍をかなりの程度まで独立的に行動する部隊に分割することは、しばしばまとまりがなくなることを
意味していたが、ナポレオンはこれを継承し、強力な中央統制を及ぼすことによって緊要な地点に対して
圧倒的な戦力集中を可能にした
彼は基本的に当時の慣習と方法の破壊者ではなかったし、その戦略も他人に負うところが大きかった
ナポレオンの作戦計画は、彼の敵の作戦計画と比較しても殆ど相違点を見出すことはできない
ナポレオンと同時代の将軍たちは、旋回運動や翼側包囲の利点をナポレオンと同様に理解していた
大きな相違は、戦闘で何を為し何を為そうとしたかではなく、軍事技術の革新がもたらした遠大な戦略構想の
焦点として戦闘をいかに活用したかにあった
彼は生涯の最期まで「戦争術とは単純であり、全ては実行の問題だ」と信じていた
ナポレオンは戦争に関する自分の考えについて包括的な記述をしたことはなかった
陸軍の組織と管理、作戦指導、国際関係における戦争の機能等に関する彼の考えは、彼の政策や行為、覚書や
命令書、公的書簡、セントヘレナで自分の行動を正当化しようとして口述した回想録等を見る限り、
戦争についての彼の見解は言葉の選び方こそ一貫していないものの、最初の戦役以来あまり変化していない
ナポレオンは「戦争の一般原則」のような体系的理論の有効性を否定していた
彼の行動を常に支配した構想は、例え後方の策源や後方連絡線が危険に晒されても、
全勢力を可能な限り戦闘に集中させることだった
彼はしばしば敵の企図や行動を誤解し、自分の部隊の能力を誤って判断することはあったし、
後年には願望や巨大な野心によって惑わされもしたが、彼の戦争についての理解は
常に残酷なまでに優れて現実的だった


そんだけ


212 :クリスマスまでに還る:2005/11/23(水) 16:39:14 ID:???
全ての戦争は政治的決心の結果であり、かつ政治的意図の表明であるという事実は、
常に戦争がその目的としている政策を達成するのに適当であることを意味してはいない
歴史的に、どれほど優れた政府や将軍であっても、外交政策と戦争の関連を的確に把握し、
どの程度の国力を動員し、どう利用するかについて正しく決定することは困難であり、しばしば不可能だった
ナポレオンにとっても、こうした問題は兵士の訓練や運用といった純軍事的問題よりも重くのしかかっていた
しばしば彼の生来の才能は軍人としてだけでなく政治家としても優れていたと評されているが、
彼の政治家としての姿勢は異常なほどに攻撃的で戦争好きだった
彼は戦争を非常手段や外交の失敗を補う最後の手段ではなく、彼の外交政策の中心的要素としていた
周囲の状況からやむを得ない場合を除き、ナポレオンは十分な準備なしに目標を追求しようとはしなかった
1796年と1797年のイタリアにおいて、兵力で優越していたオーストリア軍はナポレオンに対して
三次にわたる兵力の逐次投入という過失を犯した
もしオーストリアが全部隊を最初から投入していれば、戦力的にはナポレオンの遠征軍を十分に圧倒できていた
ナポレオンは利用できる全ての手段の全面的な活用の利益を確信しており、主要な目標とそれを達成するための
国力の動員は常にできる限り徹底して行われた
彼の政治的軍事的戦略は他の弱点に悩まされていた
彼にとって、限定された手段で限定された戦争を行うことは非常な困難を伴った
1778年の、オーストリアとプロイセンの戦争にように、一回の戦闘も行われないような戦争は
彼の性分に合わなかった
ナポレオンの手にかかると、全ての戦争は際限なく拡大する傾向にあった


そんだけ


213 :信用と信頼:2005/11/23(水) 16:39:41 ID:???
15年間にわたって彼が国家元首と軍の最高司令官を兼ね、彼の行動の自由を制限するものが
非常に少なかったことは、政策と軍事の統合に大きく寄与した
政治的権威と軍事的権威の統一は、最高指導部内で起こりがちな摩擦を除くことができた
何よりも、迅速な決定と迅速な実行を容易にし、状況に応じて要求の増加や和解の意思表示を行う等、
軍事情勢の変化にあわせて外交政策を調整する柔軟性の発揮を可能にした
指揮の統一は勿論健全な政策を保証するものではなかった
後年、ナポレオンの独裁に対するチェック・アンド・バランスの欠如が重大な過失を招き、
最後には帝国を破滅させた
ただし、ロシア遠征までは、皇帝の広範な権威が、戦争の急速な展開に対応した政治・軍事の統帥機能を
発展できなかった対抗者たちに優越する利点となっていた
ナポレオンの外交と軍事の統合は、対抗者を政治的に孤立させるという伝統的な目標を追及する場合に
最も効果を発揮した
彼の究極的意図があまりにも鮮明であったため、対仏大同盟の結成こそ防止できなかったが、
彼はなお同盟軍の戦場での連携を遅らせるため各国の個別の利益に働きかけた
1805年、一方で外交的な手を打ちながら大陸軍がバイエルンへ急進撃したことで、
ロシア軍がはるか東にある間に彼はオーストリア軍を捕捉することができた
同年12月にはプロイセンを中立に誘いながら、彼はオーストリア軍とロシア軍を撃破した
1806年にはプロイセン軍が撃破されるのをイギリスとロシアが傍観した
1807年にはオーストリア軍が躍起になって軍備を増強している間にプロイセン軍の残余と
これに同盟したロシア軍を撃破した
1809年には、各国がオーストリアを支援すべきか評定を繰り返している間に再びオーストリア軍を撃破した


そんだけ


214 :六臂:2005/11/23(水) 16:40:08 ID:???
作戦地域に複数の同盟国軍が存在していても、彼らの集合点または集合点になる可能性がある地点が、
ナポレオンに政治的軍事的目標を達成させる素晴らしい機会を提供した
異なる国の部隊の存在は指揮権の分割という厄介な問題を引き起こした
イタリアで彼は「一人の愚将は二人の良将よりも良い」とカルノーに書き送っており、
セントヘレナでも同じような言葉を繰り返している
1796年、彼は部隊をサルディニア軍とオーストリア軍の間隙に侵入させて連携を阻止し、
縦深突破の好例として有名になった
続いて彼はサルディニア軍を戦列から離脱させ、反転してオーストリア軍を撃破した
百日天下の際には、ブリュッヘル軍とウェリントン軍相手に内線作戦を行い、イギリス・オランダ連合軍を
孤立させたと判断すると、これを攻撃する前にプロイセン軍を無力化しようとして同じ手を使った
ワーテルローでは、デコとモンドヴィのように同盟軍の政治的対立が作戦上の機会をもたらした
同盟軍が本質的に持つ問題を利用するという複雑な手法はアウステルリッツでも見られた
ナポレオンはオーストリアがウィーン奪回を企図していたのを利用し、オーストリア・ロシア連合軍の主力が
まだ効果的な連携がとれておらず、北からの援軍が到着しないうちに時期尚早の攻撃をかけるように仕向けた
この攻撃の方向はフランス軍をウィーンから引き離そうとするもので、戦術的要求よりも政治的配慮によって
決定されたものだった


そんだけ


215 :出たとこ勝負:2005/11/23(水) 16:40:32 ID:???
ナポレオンの戦略は常に明確な政治的目的を持っていたが、少なくとも最後の数年を除き、
政策的な考慮が軍事力の行使を抑えることはなかった
ナポレオンは、政治的目標に達する最良の手段は、敵の抵抗力を可能な限り減退させることだと信じていた
それはすなわち敵陸軍主力を撃破することだった
彼は、要塞の奪取も、戦略的要域や首都の占領も、敵の野戦軍の撃滅と同様の衝撃を敵の戦争遂行能力に
与えることはできないと考えていた
ナポレオンの戦争計画は、決定的な戦術的決戦、すなわち敵野戦軍を撃滅するための一回または数次にわたる
大規模な戦闘を目指していた
彼の行った主要な戦役では、敵の領域内深く急速に軍を進めたことから必然的に最も重大な戦闘が行われた
しかし、その前進は特定の地点や特定の地理的目標を定めて行われたわけではなかった
むしろ敵がナポレオンの行動を無視できなくなり、戦うことを余儀なくさせるように、
強力な部隊を敵の領域深く前進させたのだった
ナポレオンの戦略は敵に決戦を強要するか、または現実に決戦を戦うことだった
作戦自体は敵部隊の各個撃破を狙って中央の内線位置から開始されるか、またはそのような地点を占領するか、
または敵陣地を包囲し敵の後方連絡線を遮断するように敵の後方に向かう機動の形をとった
1806年、ナポレオンはプロイセン軍の位置と企図を最後の段階まで把握できていなかったにも関わらず、
彼は勝利を収めた
イエナとアウエルシュテットは誤った状況判断の下で戦われ、戦術的な手当てによってようやく勝利したもので、
この勝利は彼の基本構想の堅実さを示すことになった


そんだけ


216 :博打は金持ちじゃないと勝てない:2005/11/23(水) 16:41:07 ID:???
ナポレオンはプロイセンとの戦争を望んだわけではなかった
この戦争は1805年の勝利でフランスが中部ヨーロッパに支配権を確立し、この地域に他の強国が
存在することが現実的ではなくなった結果として起こった
動員されたプロイセン軍がザクセンを通ってチューリンゲンに南進したとき、フランス軍主力はライン河沿岸と
南ドイツに駐留していた
10月初め、ナポレオンは部隊をバンベルクとヴェルツブルクの中間に集中して北進を開始したが、
ライン河への後方連絡線は無防備なまま放置されていた
本来、彼の作戦計画はできるだけ大部隊を動員してベルリンへ進撃するものだった
もしプロイセン軍が攻勢に出るならば、彼らが首都防衛を企図するか、またはその必要に迫られて
転進せざるを得ないように牽制し、戦闘になればフランス軍の兵力の優勢と機動力の優越によって
勝負が決まるはずだった
圧倒的な数的優勢を考慮すれば、いかなる方向からの攻勢も成功が約束されていた
しかし、南からの攻勢はより早期に作戦を開始することができるし、更にプロイセン軍主力を
ベルリンや後方の策源、ロシア国境から分離できるチャンスがあったのに対し、
西からの攻勢はプロイセン軍をベルリンに押し返し、ロシア軍の支援を可能にするかもしれなかった


そんだけ


217 :学習能力:2005/11/23(水) 16:41:31 ID:???
約18万の大陸軍は各2個軍団からなる3個縦隊に分割され、相互支援できるよう幅数十キロの戦線を前進した
10月12日までに、この巨大な「大隊方陣」は、ワイマールとイエナの間を北に向かって
緩慢に撤退していたプロイセン軍の左翼を遠く旋回して前進し、ライプチヒ、ハレ及びベルリンへの
プロイセン軍の後方連絡線を遮断していた
13日、ナポレオンはイエナ後方の高地に布陣していたプロイセン軍部隊をプロイセン軍の主力と信じて
彼の部隊の大部分をこの高地に向けて西に旋回させ、一方、既に20キロ以上北に離れていたダウーに対して
敵の背後に打撃を与えてフランス軍の突撃を支援するよう命じた
翌日、フランス軍は東から西に前進したが、二つの戦闘が戦線を逆転した形で生起した
ナポレオンの予想とは逆に、ナポレオンが直面していたのは彼の兵力の半分にも満たない一支隊に過ぎず、
ダウーは包囲攻撃を仕掛けるどころか、フランス軍を突破して後方連絡線を回復しようとするはるかに優勢な
プロイセン軍主力に攻撃される羽目になっていた
ダウーが最後まで持ちこたえたため、プロイセン軍はベルリンから更に西に後退した
彼らはイエナで撃破された友軍の後退経路を横断して退却し、フランス軍の徹底した追撃によって撃滅された
プロイセンの中心部近くにナポレオンが巨大な軍事力を進出させたため、
プロイセンはこの脅威に対応せざるを得なかった
その結果として生起した戦闘は、フランス軍の異例なほどの大勝利だった
そのような大災厄の後でさえプロイセンが更に8ヶ月も戦い続けることができたのは、
戦争の変革に伴う戦争規模の拡大と新しい限界を示唆していた
フランス共和国と続くフランス帝国が持てる国力を戦争に総動員したことは、
相手側に同様の規模と強度の対抗措置を誘発させるようになってきていた


そんだけ


218 :攻撃衝動は常に弱い対象に向けられる:2005/11/23(水) 16:43:45 ID:???
ナポレオンは、敵が明らかに優勢な場合には、できれば敵が側面に移動するのを妨げる水系等の天然の障害で
分断された地形において部隊を強力な陣地に配置し、できるだけ多くの予備を拘置して正面の戦線で戦った
本格的な戦闘が開始されると、予備隊が中央突破部隊として敵戦線の一部を攻撃し、
これを突破して他の敵軍の翼と後方を打撃した
もし彼の部隊が同等か優勢ならば、彼は戦線を拡張して敵を包囲するよう試みるか、または分離した軍団で
翼側攻撃を行った
後者の場合、より深い突破が可能なのでより大きな戦果が期待できるが、数キロ以上離れた部隊間の
連絡と協調は信頼しかねるので、より達成が困難となった
こうした包囲攻撃はいつの時代でも珍しいものではなかった
ナポレオンの対抗者たちも彼と同様にその有効性を承知していた
しかし、ナポレオンにとっては慣用的な戦術を対抗者たちは極めて稀にしか試みなかった
正面攻撃は技術的により統制が容易であり、不慮の事態が起こる見込みも少なかった
ナポレオンと彼に対抗した将軍たちとの最大の相違点は、その強調度と心理的姿勢にあった
ナポレオンは時には敵が過度に戦線を拡大して攻撃してくるまで防御を続けたこともあるが、常に攻撃を好み、
純然たる防御を好まなかった


そんだけ


219 :HQボーナス:2005/11/23(水) 16:44:16 ID:???
彼は主動の利を承知しており、それを失うことを恐れた
しかし、攻勢か攻勢防御かまたは防勢かの選択は、全て戦闘での時間と地域の状況、部隊の消耗、士気、
相対戦力、敵の任務、指揮官の性格と意志等、様々な要素が絡み合う複雑な問題を呈する
当時、これらの問題は単に報告を読み地図を見るという二次的な資料の分析によってだけではなく、
指揮官が直接目撃する現実に対応し、その視野の中で数万の兵を動かすことで解決されていた
実際に軍事的なエネルギーを備えた部隊を展開し、目の前の敵を圧倒し、撃破することにかけては、
ナポレオンは最も強靭な精神的・知的反応を示した
ナポレオンのカリスマ性の影響と絶対的な優越性への信頼は彼の部下の将軍たちから敵対者にまで及んだ
ウェリントンはナポレオンの存在が4万の兵に匹敵すると考えていた
ナポレオンから遠く離れて戦うフランス軍部隊は、敵にナポレオンと対戦していると信じ込ませるために
「皇帝万歳」と叫ぶよう命令された
1813年秋の対仏同盟軍の戦争計画では、ナポレオンが前進して向かってくる場合には、
どこの陸軍も退却するよう率直に勧告されていた
どのような戦争の理論も、指揮官、兵士及びその相互関係の真理を含まない限り取るに足りないと
確信していたクラウゼヴィッツは、ナポレオンの最も偉大な業績を、戦場での勝利や成功した作戦でもなく、
1796年にイタリアで陸軍の士気を再建したことであると記している


そんだけ


220 :忠良なる実践者:2005/11/23(水) 16:44:51 ID:???
ナポレオンが勝ち続けた理由の一つは、彼の対抗者たちが彼の戦い方を理解して効果的な対応策を見出すのが
難しかったからだった
彼らがナポレオンの戦い方を理解できなかった最大の理由は、それが突発的に発明されたものではなく、
数十年前から既に文献の中で広く論じられていた軍事的な組織論や方法論を全面的かつ積極的に
適用したからだった
長期的に見ればフランス軍は新しいタイプの戦争をもたらしたが、その変化は既成のシステムを拡張する形で
試行錯誤の末に徐々に行われたものであり、しかもその過程でフランス軍はしばしば大敗していたため、
その真似をするのが当然というわけではなかった
また、一般徴兵制や将校任命の門戸開放、占領地での組織的な自活のようなスタイルは、
旧体制の価値観や条件とはほとんど共存できないと考えられていた
これらの手法を実地に行うことは、社会制度と政治制度を変えることになると信じられていたため、
軍事的な分析を行うことは非常に難しかった
第一次、第二次大同盟との戦争でフランスは新しい手法を大規模に使い、一定の成果を上げた
他の国でも幾つかの実験が試みられるようになってはいた
数種類の軍団の編成、新しい将校教育制度とともに、参謀本部の拡大と再編が行われていたし、
ヨーロッパの多くの軍隊で隊列を組まずに散開して戦う軽歩兵が流行した
こうした流れの中で、ナポレオンが異なる立場をとっていたわけではなかった
1790年代には彼はまだ精力的で有能な将軍の一人と見なされていたに過ぎず、
その戦い方は他の将軍とそう変わっているわけでもなかった
彼の手法の要点が詳細に記録され、分析されて一般に認識されるようになるのは、
彼が軍司令官になってからおよそ10年後のウルムとアウステルリッツの後になってからだった


そんだけ


221 :結果が全て:2005/11/23(水) 16:45:19 ID:???
ナポレオンの成功に対する反響として、そして1792年以来殆ど絶え間なく戦いが続いた結果として、
ヨーロッパの大部分の軍事組織が近代化された
新興のライン連邦、オランダ王国やナポリ王国等の衛星国はすぐにフランス軍のモデルを採用した
ハプスブルグ帝国とプロイセンは、フランスの挑戦に促されて本来の伝統の上に新しい軍隊を創設し、
これらの変革は必然的に社会や政治にもある程度の変化をもたらした
シャルンホルストとグナイゼナウを初めとするプロイセンの軍事改革者たちは、フランスの新しい戦争の手法が、
革命がもたらした大きな社会的・政治的変革の表現であることを承知していた
第二次大同盟が崩壊した1800年頃、フランスの軍人たちは戦争に明け暮れて自分たちの行動について
論文を書く暇もなかったが、シャルンホルストは雑誌を編集して一つ一つの会戦の研究を発表し、
グナイゼナウはシレージエンの要塞で自分の中隊に新しい戦術ドクトリンに基づいた訓練を試みていた
フリードリヒの軍隊は社会から孤立した傭兵軍で、貴族出身の将校の名誉を重んじる精神と忠誠心だけは
尊重されていたが、兵の統率は厳しい規律によってようやく維持されていた
プロイセン陸軍の改革者たちは、専制時代の陸軍を国民軍に変えるという目的のために、
他国では試みられたことがないほど急進的な一般義務兵役制が導入された
1814年にボイエンが起草した軍事法において、その構想はプロイセン軍制の不変の原則となった
徴兵制は事実上大陸の全ての国で採用されるようになったが、プロイセン以外では貧しい者だけの徴兵に
とどまっており、これはフランスも例外ではなかった
徴兵免除金の支払いや代理を立てることが許されていたからだった
プロイセンでは、文字通りあらゆる社会階層が現実に兵役についた
この点で、プロイセン陸軍は他のどの国の軍隊よりも明白に国民軍だった
不幸なことにプロイセンの国民は民主的な市民ではなく、官僚的絶対主義下の臣民のままだった
また、プロイセンの貴族が政府と軍で特権的な地位を回復したことから、
ユンカー階級は将校の地位を独占し続けた
アメリカとフランスでは民主主義の論理的結果として国民軍が誕生したのに対して、
プロイセンでは絶対主義国家の権力強化の手段となった


そんだけ


222 :イワンとセミョーンとタラースとマラーニヤの国:2005/11/23(水) 19:25:05 ID:???
ロシアは、1709年にピョートル大帝がポルタヴァでスウェーデンに勝利して以来、
ヨーロッパで大国の地位を確保していた
ロシアの発展は主に軍事力によるもので、多くの有能な軍人を輩出した
しかし、軍隊勤務がロシアの知識人に人気があったにもかかわらず、後世に影響を与えるような戦略理論家は
生まれなかった
18世紀のロシアの知識人にとってロシアの人口の半分を奴隷状態に置いている農奴制は頭を悩ます問題だった
ロシアの知識人が信奉している西欧的自由と農奴制は明らかに矛盾していた
ロシアの知識人の中には、農奴制がキリスト教以前の非官僚的で温情的なロシア社会を歪曲した過度の西欧化の
結果であるとして、このロシアという国家の根底をなす最も基本的なシステムに反対する者も少なくなかった
しかし、農奴制に道徳的な問題があったとしても、農奴制が軍隊に何か問題を起こしたことはなかった
むしろ、農奴制はロシア軍を強化し、軍の根幹になった
比較的少数の農奴を生涯(後には25年間)軍隊に徴集するという苛酷だが効果的な制度は大規模な常備軍の
維持を可能にし、1709年以来、ロシアの軍事的成功の基礎となっていた
フランス革命戦争時のフランス軍(国民軍ではあったが常に将兵の3分の1以上が外国人だった)と
比較しても、ロシアの動員システムのほうが明らかに優れていた
ロシアの農民兵は実質的には何も支払われず、徴集されて軍隊に移送される間に多くの兵が逃亡したが、
いったん部隊に配属されると脱走兵の数は西欧諸国に比べて非常に少なかった
18世紀のロシア軍司令官はフリードリヒのモデルを採用して成功し、その強い影響下にあった
その結果、農民兵で構成されているロシア軍の戦術的改革は十分には行われなかった


そんだけ


223 :戦奴の気質:2005/11/23(水) 19:25:55 ID:???
18世紀末になってようやくアレクサンドル・スヴォーロフがフランス革命戦争の特徴である迅速な戦略機動や
散開隊形を採用して戦術の改革を行った
スヴォーロフは貴族ではあったが有能な司令官で、農民兵の軍事的価値を最初に認識した人物だった
彼は主要なヨーロッパの言語に通じ、フランスで行われていた戦術的改革の必要性を理解していた
彼は著作よりも実際の行動で影響を与えた
彼は理論的な戦略家でも戦術家でもなく、自分の思想を書物に著すこともなかった
彼の最も代表的な著作である「勝利の技術」は、下級将校や下士官のための手引書として書かれたものだった
これは僅か8ページのパンフレットで、平易な言葉で書かれており、士気の重要性を強調し、
戦場における基礎的な行動を説明し、健康と士気を維持する方法を教育するものだった
彼は、ロシアの農民兵が柔軟で近代的な戦法を身につけ、新しい戦術を採用して、
当時ヨーロッパで最も優れた軍隊に対抗できることを示した
スヴォーロフは1800年に死んだが、ミハイル・クトゥーゾフやミハイル・バークレイ・ド・トリたちが
伝統的な方法で動員した1812年のロシア軍にはナポレオンの軍隊を敗北させる能力があった


そんだけ


224 :不味い飯の国:2005/11/23(水) 19:26:41 ID:???
急進的な軍事的革新は、1790年代のフランスのような社会的・政治的革命に支援される必要がないことが
証明された
軍事的革新は安定し高度に権威主義的な政府の下でも実現し維持することができた
殆ど唯一の例外はイギリス陸軍だけで、様々な組織的変化はあったものの、基本的には18世紀型の軍事組織が
維持された
イギリスは伝統的に常備軍に対して根強い偏見を抱いていた
島国で外界から隔絶されていたため、イギリス議会は国防問題について何とか切り抜けることが可能だったし、
議会と王室の長い抗争において軍がスチュワート家の道具になっていた経緯もあって、
専門的な軍隊が市民の自由にとって危険な存在だという考えが培われていた
大陸ではフランスやその他の潜在的な競争相手が大規模な常備軍を組織し、専門職の軍人の下で
軍事組織と技術は大幅に進歩していた
それにも関わらず、イギリス議会は平時においても的外れな戦力を維持し続け、
住民に将兵のための宿舎提供を命じるという非効率で士気を損なう制度を頑なに存続し、
民兵への依存を続けていた
これが可能だったのは、イギリス陸軍の規模が小さく、戦争の多くをイギリス海軍と同盟国に頼り、
スペインを除いて作戦任務が限定されていたからだった
制度上、戦術上の革新はフランス陸軍にとどまらず広く普及したが、戦略概念と作戦指導の面での変化は
緩慢だった
作戦上の技術においても、敵を抹殺することへの情熱においても、ナポレオンに匹敵する人材は現れなかった
しかし、プロイセンでは新しいタイプの参謀本部が設立され、参謀本部の要員が様々な部隊に配置されて
包括的な戦略計画に寄与できるよう各部隊の行動をある程度独立して指導するようになった
この組織は、絶えず迅速な連携がとれる範囲を超えて分散した大部隊の移動と戦闘を調整する問題に対して
原始的な解決策を提示した
こうした発展の結果として、ナポレオンがロシア侵入を決意する頃には、彼の敵対者や潜在的な対抗者たちも、
19世紀の革新の利益に与り始めていた
ナポレオンが長年享受していた絶対的優位は目に見えない形で失われつつあった


そんだけ


225 :蝗群:2005/11/23(水) 19:27:05 ID:???
当初は役立っていた要素がいまやナポレオンに不利に作用しつつあった
現地調達に依存する兵站組織は、快速の代償に、当初から不安定な補給に起因する士気の低下と
それに伴う脱走の増加という根本的な問題を抱えていた
本来、現地調達方式が採用されたのは急激な兵力の膨張に軍の補給倉庫が追いつかなかったからだった
実際にフランス国民軍の脱走問題は旧体制下の軍隊以上に深刻で、フランス陸軍の兵站組織の脆弱性と
不安定性は最後まで克服されなかった
銃剣白兵突撃による突撃戦術を取り入れた混合隊形の戦術ドクトリンは、フランス軍に性急な攻撃と
火力軽視の風潮を根付かせていた
本来、銃剣突撃は、高度に複雑な部隊行動を行うには訓練が不足していた国民兵を戦力化するための
窮余の方策に過ぎず、後にスペインやワーテルローで酷い目にあうことになった
一般徴兵制という巨大な戦争機械はこうした問題を埋め合わせて余りあった
しかし、フランスの敵がフランス軍と同じくらい大きく同じくらい機敏で強力になってくると、
こうした弱点は急速に顕在化していった
国民の政治的意識の高揚がフランス軍の規模の増大を招く要因になった訳ではなかった
一般徴兵制は、中世以来常に膨張傾向にあった軍隊の戦略的・戦術的要求に対してなされた回答の一つに
過ぎなかった


そんだけ


226 :何事も加減:2005/11/23(水) 19:27:56 ID:???
若い頃のナポレオンは、敵の力の中枢に打撃を加えることの効果を認識していた
敵の主戦力を撃破してしまえば、そして敵の政経の中枢を占領してしまえば、後はなるようになった
ナポレオンは、これらの目的を達成するための最も確実な方法として、可能な限り強力な軍隊を動員し、
基本的な目標に集中することを認識していた
この二つの認識は、政治的・軍事的現実の一面を正確に見抜いており、彼自身の征服と絶対的支配の欲求をも
反映していた
しかし、こうした視点が、彼の戦争の範囲を可能な限り最大の目的を達成するために
できる限り大きな力で戦う衝突のみに限定してしまうという非現実的な結果を招いた
一国の外交政策が大戦争のみを必要とするケースは稀だが、ナポレオンは独特の政治的軍事的なスタンスから
限定目標のための限定戦争を行おうとは考えもしなかった
こうして彼は自らその選択の幅を狭めただけでなく、フランス帝国の戦争資源の限界を超え、
対抗者たちに非常な努力を誘発する戦争に、そして最終的には戦略的にも戦術的にも政治的にも
勝ち目のない戦争に駆り立てられていった


そんだけ


227 :言うは易し:2005/11/23(水) 19:28:20 ID:???
戦略レベルでは、ナポレオンの巨大癖は十分に力を持たないという基本的欠陥以外にも重大な欠陥を露呈した
北イタリアと中部ヨーロッパでは効果を発揮した指揮統制も、スペインやロシアや、
1813年以降の再結成された大同盟に対する戦役では十分な効果を発揮できなかった
こうした無理と敗北が、軍事的・政治的決定とそれを実行に移すための措置との間のバランスを崩しつつあった
ナポレオンは単に政治的独裁のみならず軍事的にも独裁を意図したので、
彼の幕僚活動の中核は彼の要求する情報資料の提出と報告や命令を伝達する組織以上のものにはならなかった
幕僚は戦略計画の発想もしなかったし、彼の戦略的・作戦的企図の中で組織としての
独立的な意思決定の能力を発揮させることもなかった
陸軍は軍団に区分されてはいたが、同一の戦場で戦っている限りこのことは殆ど障害にはならなかった
しかし、陸軍の規模が拡大し軍団が広く分離された戦域で戦うようになると、
ナポレオンの指揮統制は破綻してしまった
ロシア遠征でも、1813年のドイツにおける戦役でも、彼の元帥たちは彼の命令を刻々と変化する状況に
応じて解釈することを期待できなかった
彼は独立的に部隊を指揮できるだけの能力を備えた方面軍司令官に対して、彼の方針に従わせつつ
自主裁量の余地を与えるといった、服従と独断専行を組み合わせた統帥を決して認めなかった
もっとも、当時の通信技術ではそんな芸当は不可能だった
ナポレオン末期の大陸軍とナポレオンがそれに課した要求は、19世紀初頭の技術能力に
限界一杯の負荷をかけるものだった


そんだけ


228 :将軍は踊る:2005/11/23(水) 19:28:47 ID:???
ナポレオンの勝利が曖昧になるにつれて、彼個人が軍事的権威と政治的権威を束ねていたことが
災難を招くことになった
責任が複数に分割されていれば、または適切な助言者がいれば、こうした事態は回避できたかもしれなかった
フリードリヒはナポレオンと同様に絶対的な権限を一身に集めていたが、国を破滅させなかった
フリードリヒは大きな危険を自ら冒す覚悟と用意があったが、自分の野心を抑え込むことができた
ナポレオンのロシア侵攻は理性の限界を超えていた
それは絶望的で不必要な博打だった
ロシアの野戦軍を撃滅できていないのにモスクワへの進撃を決定したことについても同じだった
10月中旬までモスクワに留まるという決定は、アレクサンドルが交渉に応じてくるに違いないという
根拠のない願望のために大陸軍を犠牲にすることを意味した
1813年の夏には和平に応じることを拒否したため、秋には極めて不利な状況で戦わなければならなかった
10月にザクセン同盟のためにドレスデンを諦めようとせず、ライプチヒの作戦に必要だったサンシール軍団を
引き抜いたのに、結局はザクセン同盟を確保しそこなった
「決戦の前に政策が介入して全てを失った」
1814年の作戦はナポレオンの内線作戦の傑作と激賞されているが、栄光ある戦いだったにせよ、
政治的空白の中で戦われた無益な流血に過ぎなかった
同盟軍がフランス国内に侵入する直前に、軍事的には同盟軍が数倍も優勢になっていたにもかかわらず、
同盟国を政治的に分断して許容できる条件で平和的に交渉をまとめる努力を拒否した
ブリュッヘルがパリへの中間点近くまで来たときに開かれたシャティオンの会談で、
フランス代表は情勢から見て当然要求される危機感と決意をもって会議に臨んだわけではなかった
この戦役は、政治指導と軍事指導が一体となったことの華麗さではなく、その悲惨さを明らかにしてしまった


そんだけ


229 ::2005/11/23(水) 19:29:38 ID:???
ナポレオンの末期の一連の戦役が行われるまで、フランスの国力とある程度適切にバランスしていた政策指導が
ナポレオンの戦略の不可欠な要素をなしていた
しかし、後世の彼の戦争に対する分析はほとんどが純軍事的側面に焦点が当てられている
後の軍人の多くがナポレオンの戦争を近代戦の頂点と見なし、ナポレオンの戦略思考と作戦技術の秘密を
知ろうとした
彼の統治と彼の戦争がヨーロッパに及ぼした影響は非常に広く深かったため、彼の晩年の一連の敗北も
彼の偉大さを殆ど損なわなかった
数の力、戦略的な縦深突破、決定的な地点への兵力集中といった概念は、ナポレオン流やナポレオン派のような
言葉で括られるようになった
軍人にとって、ナポレオンは量と機動の推進者として時代を超越した模範となり、
その本質は技術の進歩によっても影響されることはないと信じられてきた
実際にはその逆で、鉄道や電信、後装銃のような新技術のおかげで、初めてナポレオンの大胆な構想が
現実的になった
19世紀後半にはナショナリズムが大量の軍隊を提供するようになった
ナポレオンはその初歩的な形のものしか知らなかった
現代でも、ナポレオンが戦争についての普遍的で恒久的な価値を発見し、それが彼の戦役や著作を通じて
後世に伝えられているという主張は根強い
ナポレオンの戦略はその時代の産物に過ぎず、ナポレオンは彼の時代の可能性に調和した戦略を確立して
大成功を収めた
彼が理解し活用した社会的・経済的・技術的・政治的要素が変化すると、彼の戦略構想も変化を余儀なくされ、
時代遅れになった
彼が後の世代に与えた最大の影響は、彼が後世の戦略や作戦に与えたとらえどころのない影響よりも、
非常に多くの軍人や研究者がその影響を信じていることにあったが、それはまた別の話


そんだけ


230 :名無し三等兵:2005/11/24(木) 04:05:45 ID:???
そんだけ氏が降臨したと言う事実というだけでも、
このスレにいてよかったと思える。

231 :名無し三等兵:2005/11/24(木) 21:49:43 ID:???
うむ。
そんじゃあ読むとするか。

232 :名無し三等兵:2005/11/27(日) 19:33:19 ID:???
南北戦争について語ろう
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1082887215/
遊びに濃いよ

233 :名無し三等兵:2005/12/02(金) 17:45:52 ID:???
アウステルリッツ戦勝200周年あげ

234 :名無し三等兵:2005/12/06(火) 00:40:00 ID:???
>228
>ライプチヒの作戦に必要だったサンシール軍団を
>引き抜いたのに、結局はザクセン同盟を確保しそこなった
グーヴィオン・サン・シールはライプツィヒに引き抜かれてはいない。
ライプツィヒ会戦の間もドレスデンにとどまり、11月に連合軍に降伏している。
ttp://67.1911encyclopedia.org/G/GO/GOUVION_SAINT_CYR_LAURENT_MARQUIS_DE.htm


235 :名無し三等兵:2005/12/06(火) 00:44:14 ID:???
>225
>フランス軍に性急な攻撃と
>火力軽視の風潮を根付かせていた
フランス軍の兵力1000人当たりに占める大砲の数は以下のように推移している。
マレンゴ     1.03門
アウステルリッツ 2.11門
アイラウ     2.67門
ヴァグラム    3.24門
ボロディノ    4.41門
ライプツィヒ   3.50門
ワーテルロー   3.17門
ロシア遠征以降は敗戦による大砲の損失が響いて1000人あたりの門数も減少しているが
それまでは基本的にナポレオンは大砲の比率を高めるよう努力している。
これが果たして火力軽視と言えるのか。

236 :名無し三等兵:2005/12/06(火) 08:24:23 ID:???
何やらNHKのニュースの埋め草でちらっと流れた海外ネタにアウステルリッツで歴史ショーってのが
ちゃんと見た香具師いる?てか現場行って擲弾兵やってきた人とかいる(ワケガナイ。
200年にあわせての単発だったのか、今後も継続なのか?どっちなんだろうか?



237 :名無し三等兵:2005/12/06(火) 16:49:49 ID:???
>>235

小火器による火力軽視ということではないですかね。

実際12ポンド砲に代表されるように大陸軍の砲力重視は有名だと思いますが、
砲撃戦が終わり歩兵の前進が始まった後は砲兵は基本的に射撃できないですし。

大陸軍には確かに縦隊重視の傾向があり、これは必然的に歩兵火力の軽視をも
たらすのは事実だと思います。機動力重視、攻撃重視になると縦隊重視となる
のもまた必然でしょう。

拡張横隊を多用するイギリス軍などに比べれば、確かに歩兵火力軽視だと思い
ますよ。名作ウェリントンズヴィクトリーなどをプレイするとこれは痛感しま
す。

238 :名無し三等兵:2005/12/06(火) 23:31:23 ID:???
>237

225の文章は以下の通り。
>銃剣白兵突撃による突撃戦術を取り入れた混合隊形の戦術ドクトリンは、フランス軍に性急な攻撃と
>火力軽視の風潮を根付かせていた

そもそも砲兵の比率を高めたフランス軍に対する説明文としてこれが適切かどうかが問題だろう。
砲兵を集中運用し、事前に大規模な砲撃を加えたうえで攻撃を行うナポレオンの方式を
安易に「性急な攻撃と火力軽視の風潮」と断言している点が問題なのであり、
火力の意味が歩兵火力か否かなどという瑣末な点を取り上げているのではない。

加えて、フランス軍が歩兵火力の使用を軽視していたというのもどこまで本当なのか。
Nosworthyの"With Musket, Cannon and Sword"によれば
フランス軍は遠距離から銃を撃つことで弾を無駄遣いする傾向が強く、
逆にイギリス軍は「射撃の際のしみったれた態度」が特徴だったという。
射撃の回数を絞り、むしろ射撃直後の銃剣突撃を得意としていた英国軍の方が、
ある意味では「火力軽視」とすら言えるかもしれない。


239 :名無し三等兵:2005/12/06(火) 23:46:41 ID:???
>>238
当たりもしない距離から無駄弾をばら撒くこと=火力重視
しみったれといわれるくらいに効率的な射撃に徹すること=火力軽視

ではないことは自明のことでしょうけどねw

240 :名無し三等兵:2005/12/06(火) 23:59:32 ID:???
反証のない煽りは醜いな

241 :788:2005/12/07(水) 09:39:37 ID:???
>>237

>火力の意味が歩兵火力か否かなどという瑣末な点を取り上げているのではない

瑣末な問題であるとは思いませんが、まあそういうご指摘なら原文は誤解を受け
ないように「歩兵火力」とすべきだったでしょうね。これも私の想像に対する考
察ですが。

>射撃の回数を絞り、むしろ射撃直後の銃剣突撃を得意としていた英国軍の方が

ナポレオン戦争の一般的な文献を読む限り、イギリス軍の横隊射撃の正確さ、お
よびこれによる歩兵火力重視の傾向はもはや定説化しているようにも思えるので
すが。必中を期すために引き付けをおこなっていた訳ですから。

またいくら大陸軍が縦隊を多用したことも事実であり、いくら弾をばらまこうと
したところで射撃正面自体が狭くなる訳ですから、これは歩兵火力軽視、白兵重
視と捉えるのが一般的であると思います。まあこれは当の皇帝自体が一番認識し
ていたわけで、そのために複合隊形によるスカーミッシュの活用、横隊による火
力支援をいう方法を洗練していった訳ですから。ただ兵の質低下に伴い再度これ
も困難になっていったようですが。

242 :237:2005/12/07(水) 09:40:23 ID:???
上名前間違えました。正しくは「237」です。お詫びして訂正します。

243 :名無し三等兵:2005/12/07(水) 10:49:52 ID:???
まあ、ワーテルローの最終局面がよく物語ってると思うけどね、
仏軍の火力軽視と英軍の火力重視は。

騎兵および通常歩兵の予備が払底してしまっていたとは言え、
ラ・エイ・サントが陥落した時点で、英軍の最終防衛ラインを崩壊させるために、
仏軍が選択したのは老親衛隊による歩兵の縦隊突撃だった。
だが、英軍が反斜面陣地を強いていたお陰で、稜線に視線が妨害され、
砲兵の支援も十分ではなかった。
それでも、老親衛隊の縦隊突撃を最後の切り札として投入した。

それを崩壊させたのが、イギリス軍近衛歩兵連隊による、
正確無比な横隊射撃。

これほど両軍のコントラストが現れていた戦闘もないだろう。

244 :237:2005/12/07(水) 11:33:09 ID:???
>>243

>老親衛隊による歩兵の縦隊突撃だった

これは実は壮年親衛隊であったとされています。それもトータル5〜7個大隊、
3000名前後。2個の縦隊を形成し攻撃を行った模様です。チャンドラーもロペス
もこの辺りの記述は一致してますね(大隊数は違ってますが)。

この時点で老親衛隊は右翼側(即ちプロイセン)からの攻撃のために既に投入さ
れていた模様です。

245 :名無し三等兵:2005/12/07(水) 23:16:41 ID:???
>241
では英軍が火力軽視ととられても仕方ない行動を取った具体例を示そう。
いずれもNosworthyの"With Muskets, Cannon and Sword"に紹介されているものだ。
・ある匿名のスコットランド兵がFuentes de Onoroの戦いで銃を構えずに突撃したと記録している。
・Wheelerは第51連隊が「一発も撃つことなく」目的の稜線を占領した話を記している。
・Kincaidは5個中隊の英軍がやはり一発も撃たずに仏軍を蹴散らした例を紹介している。

上の事例は特殊なものに過ぎないというのなら、「英軍火力重視」の具体例を紹介してくれ。
もちろん一次史料の紹介で、引用元の文献も記しておくこと。例えば以下のように。

「ワーテルローで仏親衛隊が縦隊で前進したという話は英軍側の証言に拠っている。
 例えばMaitlandは親衛隊の擲弾兵が1個縦隊を、猟兵がもう1個の縦隊を組んだと記している。
 (Siborne "Waterloo Letters")
 しかし、フランス軍側の言い分は異なる。
 親衛隊のPetit将軍は「親衛隊は大隊ごとに方陣を組み、そのようにして前進した」と書いている。
 (Adkin "Waterloo Companion")
 英軍は前進してくる親衛隊を夕暮れの中、硝煙の彼方に見ただけである。
 英軍側の証言より仏軍側の言い分が信用できると判断したAdkin、Barberoなどは
 その作品の中で親衛隊は5つの方陣を組んで連合軍戦線に向かって前進したと記述している」


246 :237:2005/12/08(木) 10:32:23 ID:???
>>245

議論をされるなら以後名前に番号ハンをつけていただけると助かります。

>「英軍火力重視」の具体例を紹介してくれ

イギリス軍が横隊重視、大陸軍が縦隊重視であるという史実を持って、イギリス
軍の方が歩兵火力発揮重視であったという一般論は成り立つと思いますが。

横隊を組んでいても火力を使用しないような事例はシチュエーションによって当
然発生するでしょうが、しかしそれは横隊が縦隊よりも火力発揮重視であるとい
う基本的な性質を損なうものでは無いと思います。

まあイギリス軍が横隊火力を過信した結果、カトルブラでは騎兵突撃を横隊で迎
え撃つという暴挙に及んでしまい簡単に撃破されてしまった事例などはイギリス
軍の横隊重視の好例だと思います(もっともこれはアクスブリッジの方陣命令が
誤って伝わってしまったためであるとする説もありますが)。



247 :237:2005/12/08(木) 10:44:54 ID:???
>>245

つづきます。

またワーテルロー最終局面における壮年親衛隊撃破の際の英軍射撃の史料として
は、

「第52連隊が親衛隊の左側面に対して痛烈な射撃を浴びせかけ、フランス軍を狼
狽させ前進を停止させた」(Schom "One Hundred Days")

「僅か20ヤードの距離からイギリスの兵士たちは縦隊の先頭に次々と斉射を行っ
た。それから10分も経たないうちに、猟兵縦隊も同じ運命に見舞われた」
(Chandler "Campaigns")

「次に稜線を攻撃した親衛隊の部隊は第3猟歩兵連隊第1及び第2大隊だった。
フランス軍が25メートルまで近付いたところで公は叫んだ。“今だ、メイトラン
ド! 君の出番だ!” ほとんど肩を接するようにして4列横隊を組み、正面250
メートル以上に広がった1400人以上の歩兵が立ち上がった。彼らは相手を粉々にす
るような斉射を放った」(Adkin "The Waterloo Companion" )

などがあると思います(なお史料は「大陸軍 その虚像と実像」より引用させてい
ただきました)。むろんこれに続く白兵戦が生起したことも疑い無く、これによっ
て最終局面で壮年親衛隊が撃退されたことは間違いないでしょうが、このような近
距離戦闘においてもなお横隊による射撃を重視したということもまた特筆すべきだ
と思います。

なお追記しますと、貴方が引用した史料も私が引用した史料もいずれも一次史料で
は無いと思われますが。



248 :名無し三等兵:2005/12/08(木) 11:06:47 ID:???
先人の研究使わずに、なんでも一次資料引け引け言う人はたまにいます

249 :名無し三等兵:2005/12/08(木) 19:06:08 ID:???
最終的には戦闘はどろどろした消耗戦で決着した。
「彼はただ単に旧式のスタイルで前進しただけにすぎぬ」
ウェリントンは数週間後に記している。
「そして旧式なスタイルで撃退された」
戦いの後、ナポレオンはまだチャンスがあると思っていたが、
ワーテルローの失敗の結果を覆すことはあまりにも困難だったのである。

250 :名無し三等兵:2005/12/09(金) 00:27:14 ID:???
>246-247
>なお追記しますと、貴方が引用した史料も私が引用した史料もいずれも一次史料で
>は無いと思われますが。
説明不足だったかもしれないので書いておこう。AdkinとNosworthyの本自体は一次史料ではない。
しかし、こちらが紹介したのは彼らが本の中で一次史料から引用した部分。
戦争に参加した当事者が残した証言に基づく事例である。
さらに、Waterloo Lettersは誰がどう見てもprimary source。
Siborneがワーテルローの生き残りに何百通もの手紙を書いてかき集めた証言集だ。
当然、そこに紹介されている手紙も一次史料に相当する(当事者が残した記録、という意味で)
逆にそちらが引用したのはSchom、Chandler、Adkinが「地の文」で書いているところだ。
要するに20世紀後半に生きていた人間が書いた文章である。
実際にナポレオン戦争に参加した人間の証言と、百年以上後の人間が書いた記述。
どちらをより重視するかといえば前者を採るのが当然だろう。

ついでなのでAdkinの本からさらに一次史料の引用を紹介してやろう。
Colbourneによると仏親衛隊の射撃による英52連隊の被害は"suffered severely"だった。
散兵中隊では2人の士官が負傷し、連隊右翼は150人近くを失ったという。
「歩兵火力軽視」と言われる仏軍が、英軍相手に上げた実績だ。

>議論をされるなら以後名前に番号ハンをつけていただけると助かります。
そちらが一次史料に基づいた反論をしてくれるのであればそうする。
具体的な史料に基づいた生産的な議論になることが期待できるからだ。
だが、今後も単なる一般論を繰り返すだけであれば議論はここまで。時間の無駄。


251 :名無し三等兵:2005/12/09(金) 02:36:23 ID:???
なんか前にもこんなやりとり見た覚えあるな

252 :名無し三等兵:2005/12/09(金) 03:57:01 ID:???
こういうのを木を見て森を見ずって言うのかな。

253 :名無し三等兵:2005/12/09(金) 07:36:33 ID:???
木を見なければ森の実態はわからないよ。
一次資料の厳密な検証は絶対条件。
それを怠って森ばかり見ると、ただの風景鑑賞になることもあると思う。

254 :名無し三等兵:2005/12/09(金) 11:27:05 ID:???
他人の引用した史料の孫引きが厳密な検証になるのかよ

255 :名無し三等兵:2005/12/09(金) 11:40:29 ID:???
必ず直接一次資料にあたらないといけない、ということは、
研究者は毎度全員同じ労力をかけろということですか
先人の研究なんてゴミだと

256 :名無し三等兵:2005/12/09(金) 11:58:56 ID:???
ここで一次資料云々と言っているのは、必ず現物にあたれ
という意味ではないと思うよ。
他人の引用した史料の引用であっても、典拠をださない一般論よりは
説得力があると思うが。

257 :名無し三等兵:2005/12/09(金) 12:03:46 ID:???
まあ、>>245を素直に読むなら、
英軍の横隊重視も、仏軍の縦隊重視も、結局は相対的なもの。
ということになるわいな。
一次資料に当たる暇も、能力もない一般ピープルの自分としては、
それが知れただけでもためにはなったw

258 :237:2005/12/09(金) 12:58:45 ID:???
>>250

>説明不足だったかもしれないので書いておこう

まさに説明不足だと思いますし、剽窃とされても仕方無いと思います。また原書を
当たるならばページ数を書くのも常識だと思いますが。私は一読して「大陸軍 そ
の虚像と実像」よりの剽窃との印象を受けましたので、以後気をつけられた方が良
いと思います。

また「建設的でない」議論では番号ハンは付けられないということですが、大変恐
縮ながた「建設的でない」議論であっても真剣に議論を行えない方は、正直私も議
論の相手にしたくはありません。正直最低限のマナーも心得ていない方であると判
断します。

>>257

>英軍の横隊重視も、仏軍の縦隊重視も、結局は相対的なもの。

それを一般化し、モデル化して理論化するのが「考察」というものだと思います。

あまりこの件で書き込みますと氏の本論を邪魔することになると思いますのでこの
辺で。

259 :名無し三等兵:2005/12/09(金) 13:12:05 ID:???
氏の本論ってなんだ?
ここはそんだけの個人スレではないよ、アホか

いきなり剽窃呼ばわりする無礼者が常識を語るなよw

260 :237:2005/12/09(金) 13:20:31 ID:???
>>259

孫引きして引用ページも書かずにおいたら普通剽窃扱いされると思いますが。

またあなたは>>245氏ですか?であるとしたら成りすましでないことを証明す
るためにも番号ハンを付けるべきだと思いますが。

261 :名無し三等兵:2005/12/09(金) 13:32:35 ID:???
第三者だよ

お前の議論の相手は本の名前は出してるだろ
まずお前がどこを「タクテクスの雑誌記事から引っ張ってきたものと」誤解したか、
自分から指摘するのが先
勝手に誤解して因縁つけてるように見える

引用ページを書かないうんぬんについては
お前もやってないな
自分もやっていないことを相手に提示して「常識」といってる時点で程度が知れるんだよ

262 :237:2005/12/09(金) 13:42:59 ID:???
>>261

>第三者だよ

了解です。

>自分から指摘するのが先

私はタクティクスの名連載「光と陰」の方では無く、HPの「大陸軍 その虚像と実像」

ttp://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/

にかなり類似した部分があったので、そちらから引用したように見えるとの疑義を抱い
た訳です。

>お前もやってないな

私は>>247におきまして「なお史料は「大陸軍 その虚像と実像」より引用させていた
だきました」と孫引きであることを明記しておりますし、また当該HPはこのスレに書き
込む方ならだれでも見えるであろうし知っているであろうと思いました故、アドレスま
では書かなかった次第です。それともアドレスを明記すべきだったでしょうか?

263 :名無し三等兵:2005/12/09(金) 13:54:44 ID:???
また別人だがいい加減見苦しいので横レス。

あんた(>>237)は孫引きだろうが相手にページ数書いて投稿しろ、と言っておいて、
自分は書いてないのは事実だろ。
参照したHPにページ数があるならそこまで写せ。

もういいから勝利宣言して消えてくれよ、ウザイから。

264 :名無し三等兵:2005/12/09(金) 13:57:19 ID:uoNf+uyg
             /l  i;ヽY^"yilY'i/(/(、
             )l ノ"_,.-‐'"~ ̄~ly/彡ミy;,
           ノ/ノ/~....:::::    li,i;,ハ ミ ミゞ
  rー" ̄~'‐、 ノil//" ...:::::::    li;,i;, ミ ミ  
  'i し 剽 l, ゞi,i/.::. ...::::::::     li,i; li, ミ ミ
,,_,,_l お 窃 'i,ノil/.:::......:::::::......::::::.... li,ii;,ミヾ ミ
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 ;;, ;;;;;;;二ニニl::l::'i,ーoっミヽ>ゝ'"ニOソ   ..::lミヽ、_
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265 :237:2005/12/09(金) 14:00:57 ID:???
>>263

私は「一次史料」であるとして孫引きであることを書かなかったことを
問題ではないか、としているだけです(>>260は誤解を受ける書き方で
したね。お詫びいたします)。

勝利宣言などはしませんが、スレ違いになりそうなので消えます。

しかしこんな沈んでいるスレに見物人が多いことにビックリしました。

266 :名無し三等兵:2005/12/09(金) 18:16:44 ID:???
去年は戴冠200周年、
今年はアウステルリッツ200周年、
これから毎年いろんな200周年になるけど、
あんま本とかDVDとか出ないね

267 :名無し三等兵:2005/12/09(金) 18:35:34 ID:???
出るならアウステルリッツだろうけど、
そういや、あまり聞かないなぁ。
フランスではイベントやってたみたいだけど。
モスクワ退却200周年のコスプレとか大変そうだ…

268 :名無し三等兵:2005/12/09(金) 18:49:10 ID:???
議論してる二人は外野は完全無視したほうがいいよ。

今まで荒れる要素は第三者が煽り文入れ始めることでおきた。

>しかしこんな沈んでいるスレに見物人が多いことにビックリしました。

こういう時になると必ず加わってくるのがいるから。
こういうのは態度とかに難癖つけてくるから。

269 :名無し三等兵:2005/12/09(金) 19:30:33 ID:???
とりあえずチェコの一大コスプレ大会は見たかった。
トラファルガの花火大会も見たかった。

そういう今年に限って国外へは一度も出かけられなかったorz

ところでGeneral Cavari? MercerのJournal of the Waterloo Campaignは読んだ?

270 :名無し三等兵:2005/12/09(金) 19:37:48 ID:???
>268
つ「鏡」

271 :名無し三等兵:2005/12/09(金) 19:47:44 ID:???
マーサーって、砲兵隊の指揮官だった人だっけ?
あちこちで引用されてるよね。

それはそうと、ワーテルロー200周年のツァーに参加したいなあ。

272 :名無し三等兵:2005/12/09(金) 22:07:14 ID:???
>271
G Troop of the Royal Horse Artilleryの指揮官時代の回想録。
なかなか文才もあったらしく、紀行文としても楽しめる(上陸後の移動の顛末の下りはまさに
紀行文て感じ)。

273 :名無し三等兵:2005/12/10(土) 12:28:58 ID:???
>>272
トンクスです。ほぉ、戦争以外の部分も面白そう。
それにしてもワーテルロー関連は資料大杉。


274 :名無し三等兵:2005/12/16(金) 11:08:40 ID:???
とうとう「炎の英雄シャープ」DVD発売が決まったようですね。
ttp://www.tanomi.com/sharpe/

小説はダイス機だったのですがボックスを買うのは勇気がいります。これってテレビ放映がありましたっけ。
ご覧になった方、どうでしたか。

275 :名無し三等兵:2005/12/17(土) 11:30:51 ID:???
イギリス軍=横隊、フランス軍=縦隊という通説を再検討した例
ttp://www.napoleon-series.org/military/organization/maida/c_maida.html


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